黒部川源流の山々(薬師岳・黒部五郎岳・赤木沢)

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 昔から地図とにらめっこしながら旅行計画を立てるのが好きだった。ワンゲル部に所属していた学生時代は、扇風機しかない熱気の籠った部室の中で、一人で過去の部員の山行記録集を漁りながら計画を練っていると時間がいくらでも過ぎて行った。そうして作り上げた計画の中には実現したものもあれば、そうでないものもたくさんあったけれど、収穫は自分の中で理想とするような山行形態ができあがったことだった。それは沢であれ尾根であれ、登山道であれ藪であれ、色んな場所を結んで一つの山域を点でもなく線でもなく「面」として歩きつくすことだった。それは僕にとって「渡り鳥のように旅すること」を標榜する「ワンダーフォーゲル」の精神を体現するものだった。 

 その後友人に山菜採りやキノコ採り、イワナ釣りの楽しさを教えてもらった。そしてワンダーフォーゲル的な山旅をしつつ、山の中の生活要素を盛り込むことに大きな魅力を覚えるようになった。けれどもその頃から社会人生活に突入したため、時間を捻出することができなくなってしまった。

   今回はそんな中で夏休みを取り、ようやく山に行ける運びとなった。そして黒部源流の山々(薬師岳黒部五郎岳鷲羽岳水晶岳)を縦走し、祖父沢・五郎沢・赤木沢を遡下降し、できれば雲ノ平の景色や高天原の温泉を満喫するという内容の計画を立てた。モタモタしていて夜行バスの予約に失敗して出発が遅れ、実際には歩きたかったエリアの半分くらいしか歩けなかったのだが...

8月6日

北陸新幹線ができて富山への往来がとても便利になった。夜行バスは逃したが、朝始発列車で最寄駅を出発し、東京からは富山まで一直線。新幹線車内には大型荷物を置くスペースも、電源コンセントもしっかり用意されていて快適な乗車が楽しめる。

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富山駅で駅そばを朝食にささっと食べて、地鉄富山駅から黄色と緑の塗装に赤色のクロスシートの10030系列車に乗り込む。車窓には単線の鉄路の両脇に屋敷林を持つ立派な農家が散在する田園風景。停車場は丸石が積み上げられた石垣のような素朴な作りであり、「雪ちゃんの日本海みそ」の看板広告がデカデカとかかっている。そして車内には山に向かう乗客達の少し興奮したような話声が途切れない。どっぷりと地方鉄道の風情に浸かりながら、列車は内陸へと走る。

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有峰口の駅で折立行きのバスに乗り換える。時代に取り残された駅舎のたたずまい。バスに乗り込むと、出発前に高校卒業したてのように見える車掌さんが2450円の運賃を回収し、切符を渡しに来た。3人しか乗客がいないこのバスに、車掌が付くことには時代錯誤な感があるが、何から何までがノスタルジックな旅だ。

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薬師峠のキャンプ場と薬師岳

折立の標高は約1350m。そこから標高差1000mほどの登りで太郎平まで歩く。社会人になってから体力の低下が著しい。両手を膝につけ、腰を丸くしながら肩で息をして呼吸を整えている時、その自分の姿の無様さに嫌になる。

疲労困憊しながらようやく薬師峠のテント場に着いた。台風と停滞前線の動きが気になる。日本に接近する台風13号の予報円は未だに広く、動きが読めない。電波が少し入って、天気予報を更新してみるとこの先数日間の予報は曇り又は小雨といった感じであった。

8月7日

翌日、朝は霧が出て視界が良くなかった。天気が思わしくない日に沢に行っても面白くないし難度が増すので、黒部川には下りず黒部五郎岳まで稜線を歩くことにした。足下の高山植物は盛りを過ぎていたが、それでもこれまで見たことのない花をたくさん観察することができた。

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チングルマはほとんど花期を終え、綿毛になっていた。

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エゾシオガマ Pedicularis yezoensis

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トウヤクリンドウ Gentiana Algida 

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コイワカガミ Schizocodon soldanelloides f. alpinus

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ウサギギク  Arnica unalascensis var. tschonoskyi

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チシマギキョウ Campanula chamissonis

黒部五郎岳の肩に着くと、黒部五郎カール方面の展望が一気に開けた。

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チングルマ Geum pentapetalum

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黒部五郎岳の山壁は氷食でスプーン状に削られており、雄々しい姿を見せている。天気が好転すると日差しが強く、残雪が目に眩しい。

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ハクサンフウロ Geranium yesoemse var. nipponicum

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黒部五郎岳山頂で天気を確認すると、最新の予報は向こう2日間曇りであり、悪化の兆しは見られない。目下天気は悪くないので、ここから五郎沢を下降することに決めた。カール底へと伸びる登山道が五郎沢を横切るところで入渓する。

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正面に黒部川最奥の水晶岳鷲羽岳を見ながら下降をはじめた。

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ミヤマトリカブト Aconitum nipponicum 

2時間半ほどかけて、五郎沢と黒部川本流の出合にたどり着く。森に囲まれた清涼な黒部の流れは美しい。

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元々は祖父沢を遡行して雲ノ平まで行こうと思っていたが、この時点ですぐに午後2時半と若干時間が遅かった。また、好天が持続している以上、黒部川源流の雰囲気に浸れるこの場所をすぐに離れてしまうのは勿体無い気がした。

原生林・青空・白い瀬とエメラルド色の淵が織りなす流れ・足下を走るイワナ...思い描く名渓の景色がここにある。

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地図を眺めながら幕営適地を探した。そしてしばらく遡行すると、絶好の台地を見つけた。川床から10mほどは高くて増水の心配は無い。更に嬉しいことに、台地上のみ笹薮が途切れて爽やかな草原になっている。正面には先ほど登頂した黒部五郎岳が望まれ、目の前には焚火の跡。先人がいたかと思うと悔しいような、一方で自分の見立てが間違ってなかったことが嬉しいような、そんな複雑な気持ちだ。早速テントを張り、岩魚釣りに向かう。

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まずは虫除け網を使って餌となる川虫の採集を試みるが、全然ヒットしない。タモではなく手持ちの虫除け網を使っているので非常に使いづらいのと、そもそも上流部は中流部と比べて川虫を見つけるのは難しいようだ。かろうじて蛭のようなものがウニュウニュしたものが捕れたので試しに針にぶっ刺して竿を下ろすが全く反応はない。そこで川虫は諦めて、川岸に餌になりそうなものはないか物色する。今度はコバイケイソウについている名も知らない虫を捕まえてまた針をぶっ刺し、竿を下ろすがやはり全然かかってくれない。イワナが足下に見えるくらいだというのにひどいザマだ。

祖父沢はアタリがないので本流に戻ることにする。岩につまづきながらやっと本流に出ると、今度は「ゴロゴロゴロゴロ・・・」と地鳴りにも似た音がする。上流を見ると怪しい黒っぽい雲が湧いている。「さては雷ではないか、雨が降って増水したら危険だ」と慌てて幕営地の方に戻る。しかし戻る途中で気づいたのだが、ゴロゴロという音は水流が勢いよく流れる過程で生じた音であり、雷でも何でもなかった。釣りはうまくいかないし、アホな勘違いはするし、さっき幕営地に着いた時はとても充実した気分だったのにどっと疲れを感じた。釣りはあっさりと諦めて、お腹も空いたので夕食にする。

今晩のメニューはミネストローネ。疲れているのか、野菜をちまちまと切るのに苛立ちを感じる。大人数ならワイワイと喋りながら切れば良いのだが、一人で細かくニンジンを、ジャガイモを、タマネギを刻むのは今の気分に合わない。

8月8日

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 予想に反して快晴の朝がやってきた。天気が悪ければ祖父沢をさっさと遡行して雲ノ平まで行こうと思ったが、非常に天気が良いので、本流を下降してから赤木沢を遡行することに決める。出発は午前5時。昨日登頂した黒部五郎岳のモルゲンロードを見ながら沢を下降する。

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ダイモンジソウ Saxifraga fortunei var. alpina

岩をピョンピョンと軽快に跳ねながら、気づけば1時間半ほどぶっ通しで歩いていた。やがて赤木沢出合にたどり着く。幅広の滝とエメラルド色の淵が織りなす景色は、黒部川の中でも最も美しい場所の一つだ。やがて淵に光が差し込み、水面がキラキラと反射する。

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しかし赤木沢に入渓するためには淵を横切ろうとしたところ、足の置き所に失敗してドボンする。全く想定していなかったのでカメラを肩ベルトにつけたままにしており、ここで愛用のカメラが水没する。

大学に入学した当時から6年半、どこに旅行に行くにも連れ添ってくれたカメラがこのような形で終わりを迎えたことが受け入れられず一気に暗澹たる気分になる。自分のカメラはCANONのS100という、コンパクトデジカメではあるものの当時4万円くらいで購入した高級モデルだった。両親に貰ったプレゼントのようなもので、特に山の青空をとても綺麗に映してくれるのが気に入っていたし、大切に使ってきたものだった。以降は仕方なくiphoneでの撮影となった。

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気を取り直して赤木沢に入渓する。こちらはF2。水流中好きなところを快適に登れる。

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ニッコウキスゲ Hemerocallis middendorffii var. esculenta

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素晴らしい水の色!

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大滝を難なく高巻いて滝上より。

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中俣乗越まで快適に詰めあげ、北ノ俣岳に向けて登ると、行きの時は見えなかった黒部五郎岳の姿が綺麗に望まれた。

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ミヤマリンドウ Gentiana nipponica

行きの時には全く開いていなかったミヤマリンドウの花も、日光を受けて綺麗に開いている。

...強い太陽光線の中、気だるさを感じながらゆっくりと稜線漫歩を楽しんだ。午後になるにつれて岐阜、長野方面から雲が上がってきて、小雨がちらついたが雨具を出すまでもない。やがて天気は落ち着いた。薬師峠のテン場に着き、夕方になると綺麗な夕日が雲海の上に落ちた。翌日下界の予報は曇りだが、この様子だと山の上は晴れるのではないだろうか。翌日に備えて早く寝た。

8月9日

最終日。朝食はうどんだが、食料計画を間違えて、出汁を持ってくるのを忘れていた。仕方なく白湯でうどんを煮てかき込んだが、酒精を添加しているうどんなのでアルコール臭はあるし味はしないし、とんでもない朝食になった。午前4時前にヘッドライトをつけて薬師峠から出発したが、何度か戻しそうになえるのをこらえながら樹林帯の急登を進んだ。荷物が軽くて体が圧倒的に軽いのだけが救いだ。登山道が沢状になった場所で蛙の姿を見た頃には吐き気が収まった。

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快調に標高を稼ぎ、薬師岳山荘のあたりで夜明けを迎える。西側には綺麗な雲海が見られ、その上に白山が浮かんでいる。薬師岳山頂付近は未だ霧の中だが、大気は安定しており、すぐに天気が良くなることが予想された。

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山頂より雲海の上に白山を望む。

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予想通り山頂に着くと霧は完全に晴れ、北側の展望が一気に開けた。薬師岳圏谷を挟んで劔岳立山が見えている。そして圏谷のS字状のモレーンとそれに堰きとめられて溜まった残雪が、かつての氷河の名残を物語っている。

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槍穂連峰の稜線もクリアに見渡せる。誰もいない山頂で感慨にしばらく浸った。しばらくして単独行山ガールがやってきた。アメリカのトレイルから出てきたような溌剌とした恰好で黒部五郎~水晶岳高天原~雲ノ平をテント泊で縦走した強者のようだ。帰京した後金曜日には1日仕事にでて、次の週末には父親を連れて白馬岳に登るというから筋金入りだ。記念に写真を撮ってもらい、山頂を後にした。

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ヨツバシオガマ Pedicularis japonica 

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オヤマリンドウ Gentiana makinoi

太郎平から急いで下山していると、途中で台湾人の声がした。かなり大きな荷物を持った強者の集団と見たのでよく見てみると、「彰化山協」や「中華民国遡渓協会」の文字。話を聞いてみると、台湾の沢登りを開拓してきた「海外遡行同人」会長の茂木さんの案内で黒部源流の山々を縦走するという。思いがけない出会いに驚きつつ折立までの道を下山した。

...今回はカメラは水没するし、釣果もゼロと散々な結果だったが、沢と稜線を結びながら2座の百名山のピークを踏み、快晴のなか黒部源流や赤木沢遡行ができたので充実感はあった。また、多種多様な高山植物も観察できた。訪問しきれなかった雲ノ平や水晶岳高天原方面は季節を変えて訪れたい。