錦秋の越後駒ヶ岳

f:id:toyojapan1:20181009093731j:plain

魚沼盆地の東側に連なる越後駒ヶ岳、中ノ岳、八海山は、総称して「越後三山*1」と呼ばれている。近隣の谷川岳尾瀬と比較して訪れる登山者は少ないが、鋸歯形の岩場から成り信仰の山として長い歴史を持つ八海山、深田久弥日本百名山にもリスト入りしている越後駒ヶ岳、そして三山最高峰の中ノ岳とそれぞれ個性を持った山峰であり、この三山を馬蹄形に縦走する登山ルートは知る人ぞ知る名ルートになっている。

今回はその三山のうち、越後駒ヶ岳、中ノ岳の二山と、荒沢岳を結ぶ通称「裏越後三山」の縦走を計画した。

予報時から危惧していた台風は1日目夜に通過し、無事小屋でやり過ごすことができたが、日本海側の山の特性で台風通過後の北西風の影響を受け2日目は天気がなかなか回復しなかった。結果的に駒の小屋2泊ののんびり山行になったが、台風で登山客が全くいない小屋を独占しながら珈琲片手にのんびりと本を読むことができ、それはそれでとても楽しい思い出になった。

社会人になってから初めての上越の山行はリッチに新幹線アプローチ。「リッチに」と言いながら大宮までは在来線を使って節約するなど若干どっちつかずな感は否めないが、そもそも東京大宮間は騒音対策のため新幹線のスピードも遅く、職場からなら東京駅に出てから新幹線に乗っても在来線で大宮駅まで行ってから新幹線に乗っても大して所要時間は変わらない。それなのに特急料金は前者と後者では約1000円も違ってくるのだから、始発の東京駅から乗った方が座りやすいことを差し引いても賢い選択をしたというべきである。

さて、大宮で乗り込んだE4系Maxとき号は2階建の新幹線で非常にワクワクする作りだが、エンジン音は新幹線らしからず大きいし座席のコンセントもなければリクライニングもできない(自由席の1階座席はリクライニング可能らしいが2階は不可のようだ)など、全体的に古さが否めない。最近の報道によると2021年には姿を消すそうである。思えば自分が鉄道好きだった5歳くらいの頃に最新鋭の車両として紹介されていたものだから、それを考えると寂しいが長きにわたって役目を全うしたと言えるだろう。

新幹線を浦佐駅で降り、コンビニ1軒、ファミレス1軒と田中角栄像くらいしかない寂れた駅前で予約していたタクシーに乗り込む。タクシーの運転手さんによると、越後三山のうち越後駒ヶ岳や八海山は魚沼盆地一帯かなり広い範囲から仰ぎ見ることができるが、中ノ岳も含んだ三山を綺麗に眺めるには、上越線只見線が分岐する旧小出町がベストスポットなのだそうだ。

浦佐自体が少し寂しい町だったが、夜の暗い道を一路山の中に向かっていき「ここが最後の人家です」「この辺は熊がいっぱいいますよ」などと運転手の解説を聞いていると若干心細さが出てくる。程なくして着いた登山口の伝之沢小屋までは深夜料金加算で約4200円であった。伝之沢小屋は一階がトイレ、二階が大部屋となっている小屋だが肝心の二階は鍵がかかっており、利用することができない。仕方ないので外の駐車場にテントを張って寝た。嵐の前の静けさで、満点の星空が綺麗だった。

10月6日

f:id:toyojapan1:20181009092701j:plain

快晴の天気で爽やかな朝を迎えた。伝之沢からは水無川の流れに沿って林道を歩く。途中で上越の酷暑を耐え抜いた残雪がゴロリと沢床に横たわっていた。標高500mに満たないこの場所で、10月上旬に残雪が見られることに驚きを隠せない。右岸側にはツルツルに磨かれたスラブ帯を白い沢水が走っている。この斜面を滑るようにして雪が沢床まで押し出され、春にはかなりの雪溜まりを形成するのであろう。

また、林道では途中マムシに出くわした。運よく道の真ん中に居座っているのに気づいて避けることができたが、よそ見していれば踏みつけてしまいひどい目にあうところだったと思うとぞっとした。手当が遅れれば腎機能がダメージを受けて一生透析を受けなければいけないなど非常に恐ろしいので、次回以降の山行ではポイズンリムーバーを必ず配備することを心に誓った。

f:id:toyojapan1:20181009093218j:plain

登山道に入ってからは樹林帯の道が続くが、しばらくすると八海山方面の展望が開け、グシガハナに近づくにつれ中ノ岳のボリュームの大きな山容が一際目立つようになる。

f:id:toyojapan1:20181011231955j:image

天狗平の鞍部の向こうには荒沢岳の尖った山容が見える。斜面は紅葉の全盛期。

f:id:toyojapan1:20181009093347j:plain

紅葉全盛期の斜面の先に中ノ岳。

f:id:toyojapan1:20181009155315j:plain

越後駒ヶ岳

f:id:toyojapan1:20181009092802j:plain

戦前に設置された9合目の標識を見ると駒ヶ岳はもうすぐそこだ。

f:id:toyojapan1:20181009093637j:plain

たどり着いた山頂は展望抜群。ちょうと寝転がれるだけの大きさのベンチもあり、南風の影響で秋とは思えない暖かい気温も相まって昼寝をきめこみたくなる。山頂は一等三角点や宝剣や銅像などがあり、日本の山らしく静かながら賑やかでそれもまた良い。

f:id:toyojapan1:20181009162054j:plain

天気はまだまだ悪化の兆しがないが、台風が接近しているので駒の小屋にお世話になる。紅葉期の週末は多数の登山客が訪れ、すし詰め状態になるのが常の駒ノ小屋も、今回の宿泊者は自分たちとあと1グループに過ぎなかった。「こんな天気ですので」と管理人さん。真夜中は強風が吹き荒れていたが、空はクリアに澄み渡り、星空がとても綺麗だった。台風通過時に山の上にいるのは初めてだったが、やはり恐ろしくなるほどの強風で小屋のありがたさを感じた。

10月7日

朝起きると霧がかかり、外は小雨に変わっていた。昨晩の強風は止んでいるが時折冷たい風が吹く。一日中小屋に停滞すると判断するほど天気は悪くないと思い、9時頃になって中ノ岳に向けて出発した。しかし主稜線に出るとやはり風がひどく、天狗平の手前あたりでいよいよ進めなくなった。雨が強風に吹き付けられ、頬に突き刺さるように痛く感じるようになったので撤退を決定する。嫁は「こんなのは台湾の山では普通だ」とか言って強がっていたので少し迷ったが、駒の小屋を出発する時に管理人さんに駄目だったら戻って来るよう一言かけていただいたのも判断を後押ししてくれた。そもそも天狗平から先、稜線は狭くなる一方で危険なのだ。無理をするところではなかった。

今回はのんびり山行に決め込んで駒の小屋まで戻った。こうなったからには開き直って小屋ライフを楽しむことにする。誰もいない小屋で荷物を思う存分に広げて濡れた装備を乾かし、一面に銀マットを敷いて床の冷気を遮ったあとはゆっくりと温かい珈琲を沸かして飲み、クッキーを食べ、小屋に置いてあった「小出郷山岳史」「海岸列車」などの本を読んだ。その間管理人さんは、「台風でちょうど人がいないから」ということで小屋のトイレの汲み出しをずっとしていた。排泄物はおがくずで攪拌し、最終的には二酸化炭素と水に分解される仕組みのトイレのようだが、恐らく排泄量に対して分解が追い付かないためだろうか、汲み出し作業が必要になるようだった。公務員を勤め上げたのち、ボランティア的に交代で小屋の管理人さんをされているらしく、とても好感の持てる人だった。

海岸列車 (上) (集英社文庫)

海岸列車 (上) (集英社文庫)

 

 10月8日

期待していた好天はなかなかやって来ず、霧の中、朝を迎えた。結局9時頃までのんびりして出発するとほどなくして視界が開け、青空が出てきた。

f:id:toyojapan1:20181009092550j:plain

前駒から見る駒ヶ岳は秋の装い。

f:id:toyojapan1:20181009092937j:plain

f:id:toyojapan1:20181009163151j:plain

小倉山にて小休止。越後駒ヶ岳~中ノ岳は雲に隠れてしまったが、只見方面の山々が見渡せた。さて、ここから道行山~銀山平へと下山したが、途中で単独行の男性が青ざめた顔をして引き返してきた。何でも、大規模な倒木によって登山道がふさがれ、前に勧めないのだという。少し迷ったが、写真を見せてもらったところ迂回できそうだったのでそのまま進む。実際その場所についてみると、確かに昨日の台風で広範囲に木が倒れたようだったが、倒木を越え、絡まりあう枝を避けながら進んでいくといとも簡単に登山道の続きに合流することができた。先ほどの男性は恐らく登り返して枝折峠まで下山するのだろうと考えると、その労力を想像して気の毒に思った。

道行山から下山すると、銀山平はすぐ対岸に見えているのに橋がかかっておらず大規模に迂回を強いられる。また。浦佐行きのバスだと枝折峠ではなく北側のトンネルを通るので、奥只見湖近くの「白光岩橋」というバス停まで歩かなければならない。銀山平に着いてからバス停までは非常に遠く、心が折れそうになったが何とかたどり着き、バスで浦佐まで。地元民で非常に賑わうファミレスで魚沼産コシヒカリを使った「本気丼」や焼肉を贅沢に食してから満足して帰路についた。

 

 

 

*1:もともと「越後三山」は「魚沼三山」と呼ばれており、越後駒ヶ岳深田久弥日本百名山では「魚沼駒ヶ岳」として紹介されているのであるが、どこかのタイミングで全国的に名の通りが良い「越後」を冠した名前が使われるようになり、それが流布していったのであると思われる。