2012年9月、東チベットのカム地方を訪れ、ラルンガルゴンパ(五明佛学院)やアチェンガルゴンパ(亜青寺)などの聖地を巡った。崖っぷちに付けられた道や雪の降る峠を越えてたどり着いた精神世界は、当時まだ18歳だった自分に強烈な印象を残した。今回の記事は、当時の写真を紹介しつつ、これらの地域における現状に憂慮を示すものである。
甘孜の吊り橋。甘孜は雅礱江(やがて金沙江に合流し、長江へつながる)の畔に位置し、急峻な雪山が間近に迫る美しい町だった。雅礱江にはタルチョが巻き付けられた素朴な吊り橋がかかり、両岸の住民の生活道となっていた。
当時は「雪域蔵餐」という場所に泊まった。1泊15元という破格の巡礼宿のような場所で、4人相部屋で宿泊すると、部屋は線香の煙のようなものが漂っていた。ラウンジにはチベットの高僧の写真が掲げられ、テレビではチベット語のポップミュージックのPVが流され、朝になるとお経の声で目が覚めた。
甘孜から4時間ほど乗合ワゴンに揺られてたどり着いた、在りし日のアチェンガル・ゴンパ。当時は真ん中の大通りもまだ整理されてはいなかった。今年に入ってから、「閉鎖された」「取り壊された」などのニュースがあったけれど、今はどうなっているのだろう。
アチェンガル・ゴンパの丘の上にはチベット仏教布教の功労者グル・リンポチェの金色の巨大な像が聳え、供えられた造花と、雨上がりに出た虹が美しい彩りを加えていた。
秋色に染まった草原の中、デコボコ道をローカルのチベット族と一緒に移動した。アチェンガル・ゴンパから甘孜の町に戻り、色達を経由してラルンガル・ゴンパに向かった。
ラルンガル・ゴンパは山岳斜面一面に張り付く僧坊群が圧巻だった。今はこの斜面の僧房が数列にわたって取り壊され、そこに真新しい階段が作られ、上部には展望台が作られているという。
ラルンガルは草原の山に囲まれていて、登ってみると見晴らしは最高だった。展望台など、別に必要はなかった。
当時ラルンガルゴンパで宿泊した宿。昼は食堂のように使われていて、夜になるとお小遣い稼ぎなのか宿として屋根を貸してくれた。僕が寝たのは左奥のソファの上で、硬さはちょうどいいし、出してくれた毛布も暖かかった。
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その後7年あまりの月日が流れ、今、東チベットの信仰世界には劇的な変化がもたらされているという。
山の斜面には「同心共筑中国梦(心を一つにし「中国の夢」を作ろう)」の政治スローガンが掲げられ、学生は親元を離れた寮の共同生活の中で中国人としてのアイデンティティと標準語を教え込まれる。
多くの僧房が取り壊されたり宗教行事が禁止されると共に観光地化が推進され、骨抜きにされた信仰世界がSNS映えする風景として消費されていく。
遊牧民の定住化政策が進み、大草原の一角にまるで絵を描くように綺麗に区画された住居が整備されていく。
こうした動きに胸騒ぎを覚えるのは、かつて自分がそこを訪れ、在りし日の姿を目にしていたからだけではない。私が良く訪れる台湾山岳地帯で、日本統治期の1930年代末期以降に顕著に実施された台湾原住民の集団移住政策/皇民化政策と、性質に置いて全く同じことが、80年の時を経た現代中国で、より強権的に、かつ大規模に実施されているからである。
現代において伝統的な生活が徐々に改変されていくことは、ある種不可逆的な変化である面もあるとは思う。そしてその変化の中で、伝統の良いものを残しながら、新しい時代に沿った生活へと適応していくことは何ら悪いことではないと思う。
しかしその変化が極端な民族同化思想に結び付けられ、創造された概念である「中華民族」の「復興」のために、優位的な平地定住民族である漢民族から高地遊牧民族に対して一方的な「文明化」が実施されてしまうことは不幸なことである。現在チベット族、ウイグル族をはじめとする少数民族に対し、言語/宗教/生活の全ての側面で強引な同化政策を推し進められていることには深い憂慮を感じざるを得ない。