休学中の記録

南京街歩きの記録(長江渡船と名所旧跡)

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もう随分前の話になるが、学生時代に奨学金をもらって南京に短期滞在し、中国語を勉強させてもらう機会があった。平日は朝から集中して勉強し、週末には息抜きに自由行動で色々な場所に出かけた。

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南京は武漢重慶、長沙と並んで中国四代火炉*1に数えられている都市で、夏季の蒸し暑さは筋金入りだ。実際、8月の私達の滞在中は最高気温が40度近い日々が続き、外を歩くとTシャツが汗でびしょ濡れになった。

そんな南京の夏は上半身裸のおじさんや、Tシャツの腹の部分をまくり上げて外を歩くおじさんが多く見られた。私達はこのスタイルを「南京スタイル」と呼んだ。そして自分達も「南京スタイル」を実践し、これこそ南京ローカルなのだと言わんばかりに得意気な気分で街を闊歩した。

同じことを南京の中でも新街口のような繁華街でやると顰蹙を買うかもしれないが、宿舎が位置する社区の周辺や私達が歩き回った場所は良い意味で雑然としていて、南京スタイルがよく似合った*2

今回はそんな南京の街歩きの記録を書いてみようと思う。

長江渡船と浦口の歴史

一週目の週末は長江の渡船に乗りに行った。中国一の大河である長江を是非見てみたいという憧れがあったからだ。

土曜日の朝、早起きして宿舎を出発し市内地図を片手に目的地に向かうバスを探した。

SIMフリースマートフォンを持っていなかった当時、宿舎を出るとネットにアクセスすることはできなかった。だから街を歩き回るためには市内地図を持つことが必須だった。地図は鉄道駅や観光地、路上のスタンドなどに行くと大抵3元程度で入手することができ、市内に無数にあるバス路線を全て網羅している優れものだった。地図の街路上にバスの系統番号が記載されるため、一生懸命目を凝らせば「どのバスに乗ればどこへ行けるか」ということが把握できるようになっていた。

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バスは渡船が発着する中山碼頭にたどり着いた。碼頭は新しい建物だったが、中の設備は時代に取り残されたような素朴な趣を持っていた。

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船乗り場から眺める長江は水を満々と湛えている。そして中洲の緑が目に鮮やかだった。南京のビル群は長江を境にして途切れているようで、対岸に高い建物はない。それは開放感というより、むしろ際限なく大地が続く大陸の掴みどころの無さを感じさせた。

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この渡船はその昔、右岸の南京西駅と左岸の南京北駅を結ぶ鉄道連絡船だった。当時は上海と北京が列車で繋がっておらず、上海→南京西駅(旧南京駅)---渡船---南京北駅(旧浦口駅)→北京という経路をとっていたのだという。1933年からは列車ごと船に乗せて運ぶ車両航送が行われており、いわば日本で言う宇高航路や青函連絡船のようなイメージなのだが、そんなことからも長江のスケールの大きさを伺い知れる。

上海と北京が鉄路で結ばれたのは、南京長江大橋が完成した1968年のことだ。その後、幹線から外れた南京西駅と南京北駅は廃駅になってしまった。残された航路も鉄道連絡船としての役割は終えたが、それでも当時の歴史を語り継ぐように、両岸の住民の生活航路として今でも運行を続けている。

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遠くに見える南京長江大橋。1968年といえば、中ソ紛争の真っただ中で、アメリカ、日本との国交も無かった時代だ。そんな国際的に孤立した時代に自国の技術力と人手で完成させた南京長江大橋は、中国人にとって大きな歴史的意義を持つ橋でもある。

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船は対岸の浦口碼頭にたどり着いた。バイクに乗った地元民が三々五々走り去っていくのを横目に、私達は歩きだした。碼頭の前にはアオギリの並木が作る木陰の下に電動三輪車がたくさん停まっており、まるで古い映画の1カットのような趣を持っていた。

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埠頭から南京北駅の入り口までは、往時の人々の往来を思わせる立派なアーケード通路が続く。かつてこのアーケードを行き交った大勢の人々のことを想像した。

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南京北駅(旧浦口駅)の駅舎は英国人が設計したという。1912年に開通した天津と浦口を結ぶ津浦鉄道の起点/終点駅にあたり、堂々とした構えの建物だ。駅舎はかつて日本軍による空爆を受け、その他にも数回の火災を経ている。現在は室外機がたくさんつけられて少し雑然とした感もあるものの、建設当時の面影を残していた。

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開業当時の浦口駅

この駅は数々の歴史の舞台となった駅でもある。1929年5月28日、孫文の棺を載せた専用列車が北京から浦口駅に到着した。そして駅前の広場に大勢集結した国民党員や各界の名士に出迎えられた。列車は汽笛を鳴らし、長江両岸の軍艦も礼砲を放って敬意を表した。その後、棺は軍艦「威胜号」に守られながら長江を渡り、紫金山の中腹に建てられた中山陵まで運ばれ、3日間に渡って各界の人々による公葬が行われたという。

中山碼頭から中山路、中山東路、中山南路、そして中山陵へと続く道は当時孫文の棺が通るために開かれた「迎陵大道」で、現在に至るまで南京の主要道路となっている。

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紫金山の中腹に建てられた中山陵。中華民国建国の父である孫文が祀られている。

また、浦口駅は小説の舞台にもなった。「背影」という小説で、ぎくしゃくした関係にあった父子が列車駅での別れに際して見せる人間ドラマを描いた名作だ。中国人ならほとんどの人が国語の授業などで読んだことがある作品でもある。

1917年冬、当時北京大学の哲学科に在学していた朱自清は、父と共に祖母の葬儀を済ませた。北京に戻る息子を浦口駅まで見送りにきた父は、列車が間もなく発車するという時になって急に「みかんを買ってくるから待っていなさい」と言い残して歩き出す。そして向かい側のホームにある果物の売店へ向かって線路を渡り始める。

ふらつきながらも何とか線路を渡りきるが、最後にホームをよじ登るのはなかなか簡単ではない。中年太りの体によれよれの服をまとい、両手両足をいっぱいに使って何とかホームをよじ登ろうとしている父の後ろ姿は決しての見栄えのよいものではなかった。

けれども、朱自清は父のそんな後ろ姿--「背影」を見て、なぜか涙が止まらなくなったのだ。

私はこの作品を大学2年生の中国語の授業で読んだ。だからこの駅を訪れた時の感慨深さもひとしおだった。

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私達は駅を見学した後、周りの町をブラブラ歩いた。「售票処」の文字からこの建物はかつて切符売り場であったことがわかる。三角屋根のまるで教会のような風情ある建物だが、既に役割を終えて久しい。

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「旅社」の古い看板が寂しく掲げられた建物の横には养老院(老人ホーム)があって、木陰に置かれた小さな椅子に高齢者が輪になって静かに座っていた。かつての賑わいはなく、高齢化の進む社区である印象を受けた。対岸の発展する街並みからやってくると、まるで20年、30年ほど時を遡ったかのようだった。

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私達は一通り辺りを散歩し、公園で遊び、既に使われなくなった線路を歩き、そしてまた船に乗って南京の市街地へと戻った。

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宿舎に戻って、いつもの「老地方餐廳」でお腹いっぱいご飯を食べた。メニュー表の中から、何となくわかるようなわからないようなメニューを服務員に注文し、みんなで円卓を囲んでワイワイと食べる。店内は活気があり、そして毎回何を食べても期待を裏切らないおいしさだった。

鶏鳴寺と南京の城壁

2週目の週末は、南京の城壁と鶏鳴寺と呼ばれる南朝時代からの歴史あるお寺を訪れた。

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朝の涼しい時間帯を利用して太極拳の練習をする人々の姿。

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鶏鳴寺は南京で最も古い仏教寺院で、私達は一通り参観したあと、寺の裏側の道をたどって城壁へと上がった。

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城壁に上がると、南京の街並みが一望できた。

眼下には宮殿のような風格の南京市人民政府の広大な敷地が広がる。民国時代の建築で旧考試院にあたるという。そして鶏鳴寺の薬師塔と背後のビル群が作るスカイラインは、古都としての南京と発展し続ける現代都市としての南京の姿を象徴していた。

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城壁の外側には玄武湖が広がっていて、見晴らしがとても良かった。

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戦前に吉田初三郎が描いた南京の鳥観図は当時の市街の様子を知ることができる貴重な資料だ。鶏鳴寺が玄武湖を望む丘陵地に建てられていることがよくわかる。

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城壁は今では綺麗に整備されているが、かつては日中戦争の攻防戦で大きく破壊された歴史を持っている。南京の人達は私達にとても親切にしてくれたが、そんな悲しい歴史も決して忘れてはいけないと思った。 画像来源:京都大学貴重資料デジタルアーカイブhttps://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/)

 

中国の生活とビール

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私が中国で好きだったのは一生懸命勉強して、街を思う存分散歩して、そしてそんな自分を労うように夜にビールを飲む生活だった。

中国ではビールが安く、当時で1瓶3元(約50円程度)だった。この値段であれば学生の私でも気兼ねなく毎日飲むことができたので、とても幸せな環境だった。

南京滞在中は宿舎の前に小さな商店があって、そこで瓶ビールを買っていた。栓抜きは持っていないので店主にその場で開けてもらい、部屋に持って帰ってみんなで集まって飲むこともあったし、夜の自習が終わった後に一人宿舎の入り口前の階段に座って考え事をしながら飲むのも悪くなかった。何より暑い南京の夏に冷たいビールを喉に流し込むのは快感だった。

写真には載っていないが、南京に行ったら是非飲んで欲しいのは金陵啤酒(ビール)だ。「金陵」は南京の古名で、金陵ビールは南京の地ビールと言ってよいだろう。ラベルのデザインもとてもお気に入りだったので金陵啤酒を見つければ必ずそれを選ぶことにしていた。

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ビール以外にも白酒は「二鍋頭」や「老村長」など色々試してみた。はじめは無理して、喉の奥で蒸発するような感覚を我慢しながら、いかにもおいしそうに飲んでいたが、後になって悪酔いしてから飲むのをやめた。

夏が来ると、そんな中国で過ごした日々を思い出す。

*1:火炉はボイラーの意。

*2:その後、北京では規制が始まったというニュースも流れた。まことに寂しい限りだ。