2017年にインバウンドが好調/不調だった県はどこなのか

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2017年、訪日外国人の数は前年比19%増の2869万人を記録した。一時期と比べると伸び率は鈍化しているものの、来年に予定されているラグビーW杯や再来年に予定される東京オリンピックなど上向き材料があり、今後とも堅実な伸びが予想されている。

一方でその恩恵が全国津々浦々に波及しているのかといえば、勢いには大きな地域差がある。そこで今回の記事では観光庁『宿泊旅行統計調査』のデータを利用して、2016年と比較した2017年の各都道府県宿泊者数増減率を地図上に表し、プロモーションの取り組みが好調/不調であった都道府県を可視化し、分析を行った。

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錦秋の越後駒ヶ岳

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魚沼盆地の東側に連なる越後駒ヶ岳、中ノ岳、八海山は、総称して「越後三山*1」と呼ばれている。近隣の谷川岳尾瀬と比較して訪れる登山者は少ないが、鋸歯形の岩場から成り信仰の山として長い歴史を持つ八海山、深田久弥日本百名山にもリスト入りしている越後駒ヶ岳、そして三山最高峰の中ノ岳とそれぞれ個性を持った山峰であり、この三山を馬蹄形に縦走する登山ルートは知る人ぞ知る名ルートになっている。

今回はその三山のうち、越後駒ヶ岳、中ノ岳の二山と、荒沢岳を結ぶ通称「裏越後三山」の縦走を計画した。

予報時から危惧していた台風は1日目夜に通過し、無事小屋でやり過ごすことができたが、日本海側の山の特性で台風通過後の北西風の影響を受け2日目は天気がなかなか回復しなかった。結果的に駒の小屋2泊ののんびり山行になったが、台風で登山客が全くいない小屋を独占しながら珈琲片手にのんびりと本を読むことができ、それはそれでとても楽しい思い出になった。

*1:もともと「越後三山」は「魚沼三山」と呼ばれており、越後駒ヶ岳深田久弥日本百名山では「魚沼駒ヶ岳」として紹介されているのであるが、どこかのタイミングで全国的に名の通りが良い「越後」を冠した名前が使われるようになり、それが流布していったのであると思われる。

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現代台湾人の歴史観と、「日本史」に感じる違和感について

「台湾において新しい歴史教育要綱が制定される」という中央社の報道を見たので、所感を備忘録として残しておくことにする。

以前、台湾の歴史に関する解説書を読んだことがある。そのなかでとても面白いと思ったのは、巻頭に「「台湾の歴史」とは一体「誰の歴史」なのか?」という問いかけがあったことだった。極めて単純に考えると「台湾の歴史」とは台湾における台湾人の歴史なのだが、その「台湾人」「台湾」が指し示す内実が非常に複雑なのだ。

増補版 図説 台湾の歴史

増補版 図説 台湾の歴史

 

現代の「台湾人」  について

現在の台湾には、人口の大多数を占める漢民族のほかに、山岳地域に多く分布する先住民や、「新住民」と呼ばれる東南アジア系住民(多くが台湾に嫁いできた女性)が居住している。更に言うと、漢民族の中でも独自の習慣や言語を持っている客家や、国共内戦後に大陸から台湾にやってきたいわゆる外省人など多くの細かい集団に分けることができる。また「先住民」の内実も多様で、現時点で北から南まで16の民族が認定されている。漢民族がやってくる前に台湾に住んでいたということで「先住民」と一括りにされるだけで、もともとは言語も習慣も異にする人たちの集合だ。

このように台湾の人口構成は複雑なので同じ出来事を述べる際、一つの視点のみから叙述することには危険が伴う。極端な例として、鄭成功漢民族にとってはオランダを台湾から追い払った英雄であるが、先住民から見るとただの侵略者の一人でしかないかもしれない。また、第二次大戦の終結を「抗日戦争における勝利」として迎えた人もいれば、日本国民として教育を受けた台湾人のなかには「大東亜戦争における敗戦」として迎えた人もいるだろう。台湾人の共通の物語としての台湾史を構築することはこのように難しく、緻密な仕事が要求される。

歴史上の「台湾人」について

歴史を更に遡ると、話はまた一段とややこしくなる。400年前、現在人口の大多数を占める漢民族は台湾にまだほとんど居住しておらず、オランダ人や先住民が居住するのみだった。つまりこの時期の「台湾人」は現代の「台湾人」とは大きく異なっていた。また70年前の日本統治時代、台湾には日本人が約50万人生活していた。日本統治期初期に本土から移住した人達はともかく、台湾生まれ台湾育ちの2代目・3代目の人達は、ある意味では「台湾人」の一員でもあった。戦後、彼らは既に自分達とは縁もゆかりもなくなっていた日本本土へ「引き揚げ」ることになったが、その代わりに今度は大陸から配送した国民党の人々が台湾にざっと200万人ほど流れこみ「台湾人」の構成はまた大きく変わった。

このように台湾の人口構成は時代と共に大変動を遂げており、その歴史は、背景を異にする多様な人たちが作り上げる複雑なパッチワークのようなものとも言える。

「台湾」の空間範囲について 

台湾の歴史を考察するにあたって、「台湾人」について見ていくだけでも結構ややこしいのだが、「台湾」の指し示す空間範囲についてもまた決して単純ではない。

よく台湾の歴史を把握する際に、オランダ統治時代、清朝時代、日本統治時代、国民党統治時代・・・という時代分類がなされる。しかしこの分類は間違いではないにしろ、誤解を与えかねない。なぜならオランダ、清朝、日本、国民党の統治範囲が全く異なるからである。オランダ人が統治を行ったのは台南など台湾島の南部を中心とした限られた地域だった。また、後に清朝が「台湾」を統治下においた際も、その統治範囲は西部平原地帯にすぎず、中央山脈以東に及ぶことはなかった。当時中央山脈以東で生活を営む先住民族の多くは清朝によって「生蕃」と呼ばれ、彼らが居住する山岳地帯は清朝によって「化外の地」とされていた。

全島が単一の政府によって掌握されるようになるのは日本統治時代になってからで、それも下関条約が締結されてから20年、30年を経てようやく途切れなく統治ネットワークが張り巡らされるようになった。また、これで終わりではなく、戦後「台湾」の指し示す範囲は、中華民国による実効支配が及ぶ範囲という意味では金門島南沙諸島なども含むようになっている。つまり、台湾の歴史を単純に時代のみで分類すると抜けが生じてくるのであり、台湾の歴史を把握する際には、時間軸だけではなく空間軸も入れて議論する必要があるのだ。

「一国史」を構成することの困難と、日本人による「日本史」の特殊性

現代国民国家が最も重要視する仕事の一つは、国の歴史を体系だったものとして整備し、国民の共通の記憶としてそれを教育することである。その際、現在の統治範囲を前提としてそこから遡るようにして一国史を作りあげていく手法が採られる。台湾においても「本土意識」「台湾人意識」の高まりから、従来の中国史を中心とした歴史教育ではなく、現在の台湾という地理的単位を基礎にして「台湾史」を学ぶべきだという意見が社会の主流になりつつある。しかし、先ほど述べたように、「台湾」「台湾人」の指し示す範囲が歴史的に大変動を遂げているなか、その歴史を漏れなく記載することに相当な困難が伴ってくる。現代の台湾人はそのような仕事に誠実に取り組んでいる。

良く考えてみると、「一国史」を構成することの難しさは台湾のみの問題ではなく、世界の多くの国が直面している問題である。不思議なことに、日本人が「日本史」を学ぶ時、正しいかどうかは別にしてそれは日本人による日本の歴史であるという暗黙の前提によって授業は進められる。突き詰めていくと、「日本人」「日本」が指し示す範囲は時代によって大きく異なるはずなのだが、あまりそこには注目されない。しかしそのような歴史教育は、世界を見渡すと決してスタンダードではないことも認識しておいた方が良いだろう。

 

 

黒部川源流の山々(薬師岳・黒部五郎岳・赤木沢)

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 昔から地図とにらめっこしながら旅行計画を立てるのが好きだった。ワンゲル部に所属していた学生時代は、扇風機しかない熱気の籠った部室の中で、一人で過去の部員の山行記録集を漁りながら計画を練っていると時間がいくらでも過ぎて行った。そうして作り上げた計画の中には実現したものもあれば、そうでないものもたくさんあったけれど、収穫は自分の中で理想とするような山行形態ができあがったことだった。それは沢であれ尾根であれ、登山道であれ藪であれ、色んな場所を結んで一つの山域を点でもなく線でもなく「面」として歩きつくすことだった。それは僕にとって「渡り鳥のように旅すること」を標榜する「ワンダーフォーゲル」の精神を体現するものだった。 

 その後友人に山菜採りやキノコ採り、イワナ釣りの楽しさを教えてもらった。そしてワンダーフォーゲル的な山旅をしつつ、山の中の生活要素を盛り込むことに大きな魅力を覚えるようになった。けれどもその頃から社会人生活に突入したため、時間を捻出することができなくなってしまった。

   今回はそんな中で夏休みを取り、ようやく山に行ける運びとなった。そして黒部源流の山々(薬師岳黒部五郎岳鷲羽岳水晶岳)を縦走し、祖父沢・五郎沢・赤木沢を遡下降し、できれば雲ノ平の景色や高天原の温泉を満喫するという内容の計画を立てた。モタモタしていて夜行バスの予約に失敗して出発が遅れ、実際には歩きたかったエリアの半分くらいしか歩けなかったのだが...

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孤独のグルメ(クアラルンプール・バンコク編)

7月のある日、仕事でマレーシアとタイに行くことになった。

今回の仕事はイベントの実施に伴うものだった。イベント実施のほかにも、現地企業の訪問・情報収集や打ち合わせ等スケジュールを詰めており自由時間はあまりなかった。ただ、せっかく行くのだから現地の街の雰囲気や文化を味わいたいと思っていたので、仕事が終わった夜を中心にグルメを食べたり観光をしたりした。以下はその記録である。

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クアラルンプールで1社目の訪問を終え、昼食はnasi lemak(椰漿飯)。ココナツミルクで炊かれたご飯に、フライドチキン、目玉焼き、胡瓜、小魚と豆の炒め物、エビとプタイのサンバル炒めが添えられておりかなり豪華だ。この「プタイ」と呼ばれる黄緑色の豆の味と匂いと食感は生のニンニクを更にキツくしたような感じでかなり強烈だった。「体が臭くなるから気をつけてね」と脅されたので午後の2社目の訪問を前に、eclipseのミント味を一粒口に入れリフレッシュしておいた。

後で会った現地の人に話したところ「プタイは膀胱に良いんだ」ということだった。今のところ膀胱をいたわる必要性は感じていないが、ともかく多分体に良いことは間違いないと見た。

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2社目の訪問とイベント会場の下見を終えて、夜はバクテー(肉骨茶)。マレーシアはムスリムの国であるというイメージがあるが、全体の人口の1/4程度を華人が占め、華人の食堂・レストランでは豚肉を食べることができるしアルコールも問題ない。華人には経済的に豊かな人が多いのでマレーシアでビジネスをする場合には華人との付き合いが必然的に多くなる。彼らの話す中国語は何となく台湾人と近いところがあり、自分も中国語を話す機会が非常に多くなったので、やりやすい部分はあった。そういえばかの有名歌手の梁靜茹もマレーシア籍なのだった。

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食後はJalan Alorに向かい、ドリアンを食す。僕が訪れた7月はちょうどシーズンであった。「貓山王」は「果物の王様」と呼ばれるドリアンの中でも最も高級な品種で、なかなか食べられるものではないようだ。

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中身は銀杏のような色で食感はクリームパンの中のクリームのような感じでねっとりとしている。既に晩飯をお腹いっぱい食べた上にドリアンを食べるのでその匂いには結構やられたが、何とか完食。手の匂いも口の中の匂いも完全にドリアンと化してしまったが、現地の人の勧めでドリアンの殻に水を入れ、その水で手を洗い、その水を口に含んで飲み干すと匂いが多少中和されて爽やかになった。これは非常に不思議な現象だった。

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最後にクアラルンプールの象徴とも言えるペトロナスツインタワー。KLCCと呼ばれる一帯はショッピングセンターや5つ星ホテルが多く立ち並ぶほか、熱帯植物の植栽や噴水がある公園として整備されており、市民や観光客の憩いの場となっている。

次の日は朝8時の便でバンコクへの移動があったが、ペトロナスツインタワーを見上げているこの時点で既に午後10時半。ホテルに戻って荷物を整理していると睡眠時間はほぼ無くなってしまった。翌日はまだ暗い中午前4時半頃にGrabのアプリでタクシーを呼んで空港に向かった。

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さて、バンコクへ移動して同じく所用を済ませ、夜はBTSに乗ってสะพานตากสิน(Saphan Taksin)の駅まで向かい、そこからチャオプラヤ川のボートの停船場に向かった。 

チャオプラヤ・エクスプレスは夜になると便数が激減する。船のチケットを売るおばちゃんにワット・アルン(暁の寺)もしくはワット・ポー(涅槃寺)の最寄りの停船場に行きたい旨伝えたが、「NO!」の一点張りだった。何が「NO」で代替の選択肢は何なのかよくわからなかったが、来た道を戻るわけにもいかないので、方向が合っていることを確認の上来た船に飛び乗った。一人だとこういうところが気楽で良い。失敗しても良い、というか「失敗」という概念がそもそも集団行動をする場合と異なっている。一つ一つの行動に対する説明責任は無いし、自分の行動に対する責任は自分で取れば良い。そして仮に変な場所に辿り着いてしまっても、いざとなればタクシーを使っても金額は知れているのだ。かつて学生時代、バックパッカーとしてアジアを旅した時の心地よさはそんなところにあった。「気楽に、気のおもむくままに...」。 

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夜の心地よい川風に吹かれながら。

ボートは川沿いの高級ホテルをいくつか通り過ぎながら上流へ向かった。河面にはキラキラと眩いライトを放つクルーズ船の姿があるかと思うと、不気味な暗い色をした重厚長大な貨物船に前の視界を遮られたりする。

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しばらくすると、目的地と考えていたワット・アルンの姿が見えた。おばちゃんの言った通り、この船はワット・アルンには停まらず結局やはり思いのほか上流まで連れていかれることになった。このためワット・アルンはとりあえず諦め、停船場がちょうど王宮の近くであったのでとりあえずライトアップされた王宮の周りをぐるりと歩いた。しかし高い壁に阻まれて中の様子は伺えない。続いて隣接するワット・ポーにたどり着いたので同様に中の様子が伺える場所がないかと思いぐるぐる歩いていると、入場時間は過ぎているはずなのに開いている門があった。恐る恐る中を覗いてみると、ガイドに連れられた白人の家族が観光中であったので「これは大丈夫なのだ」と思い足を踏み入れた。

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夜のワット・ポーは、有名な巨大涅槃像がある建物内には入れないが、仏塔が立ち並ぶエリアは夜でも歩くことができる。タイの歴代国王を祀る仏塔がライトアップされ、静けさの中に浮かび上がって幻想的だった。

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幻想的な風景にしばらく浸り、続いてネットで調べておいたプーパッポンカリー(蟹と卵のカレー炒め)お店へ向かう。

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Sサイズを頼んだが、一人分にはとても多い。蟹の殻を取るのが大変だが、ふわふわの卵に蟹の味が染み込んでおり、添えられた葱が味のアクセントになっていて絶品だった。出張先で一人で食事をしていると、気分はすっかり孤独のグルメだ。値段は380バーツ(約1300円程度)と決して安くはない。以前バックパッカーをしている時はこんな高級なものを食べることはなかったが、今はビジネストラベラーなのだ。。

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店の前にはたくさんの蟹が活きたまま縛られていた。泡を吹いている蟹やなんとか脱出しようと七転八倒している蟹もいて、「蟹に攻撃されるので注意」といった意味の注意書きが書かれていたので、さっと遠くからズームで写真を撮ってその場を離れた。

帰りにLEOビールをセブンイレブンで買って飲みながらMRT(地下鉄の駅)に向かって歩いているとマーケットを通りすぎた。手頃なお土産でもと思ったが大したものはなく、マーケットの中へ中へ入っていくとその脇にはたくさんのゴーゴーバーがあり、中では沢山の女性が踊っていた。タイ人女性を連れて歩く日本人のおっさんの姿も少なからずあり、後で調べるとここがパッポンと呼ばれる有名なエリアらしかった。そんなこんなでこの日は宿まで帰って寝た。

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最終日、午前の予定を終え、お土産用にメコンウイスキーとサンソン(ラム酒)を購入するためにBTS(高架の軌道交通)に乗ってSiam Paragonにあるショッピングセンターへ向かった。後で気づいたが、この2種類の酒はバンコクスワンナプーム空港内部の免税店でほぼ同じ値段で買うことができる。しかも少し値段は高くなるが、グローバル化が進むこの時代、アマゾンで日本国内で買うことだってできたようだ。わざわざショッピングセンターに行って買うことは全くなかったし、購入後この重さを背負って暑い中歩き回るのはかなりきつかった。

MEKHONG TAIRIQUOR(メコンタイリカー)700ml

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その後タイ国内の地図帳を探してショッピングセンター内にあるAsia Booksという書店に行ったが、自分が探し求めているものはなかった。失意の中、とりあえずおいしいものを食べようと、猛暑の中をコンベンションセンター伊勢丹を回りこんで人気のカオマンガイ店に向かうが、こちらも長蛇の列。色んなことがうまくいかず時間のみが過ぎていく。そもそも昨日食べたプーパッポンカレーがかなりお腹の中に溜まっており、暑い中食欲もそれほどなかったので、昼飯抜きを決意して帰り道の経路を探そうとgoogle mapを開くと「フェリー乗り場」が目に入った。

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バンコクの水上交通は南北に走るチャオプラヤ川沿いのみでは無くて街中を東西に走るセンセープ運河に沿って、ボートが走っているようだ。コンクリートで固められた現代都市の間を縫って走る船のローカル感に惹かれて乗り場へ向かった。

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センセープ運河のボートの駅は道路橋を渡り、階段を降りて運河沿いにローカル食堂が雑多に入り組んだ路地をくぐり抜けた場所にあった。

バンコクの街中は時間を問わず渋滞が激しい。渋滞につかまると全く動けなくなってしまう上に、交通規制がかかっている区間もあるため、タクシーに乗ってもかなりの時間を要してしまうことが多い。それなら、適当な場所までボートで東に向かい、そこからタクシーで帰る方が効率的だろうと考えてボートに飛び乗った。

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ボートは水を切りながら高速で進んだ。運河は狭いので、ボートが掻き分けた水は側壁で跳ね返って波となって中心へと戻ってくる。そのため特に狭い場所は少しスピードを落としながら進む。運河に沿って時には木々が生い茂り、時には露店が並び、各停船場では時々制服を着た学生が乗り込んできたりした。地元の人にとっては日常に過ぎないが、自分にとっては一種のアトラクションだった。

そしてそろそろかなと思ったタイミングでgoogle mapを開くと愕然とした。方向を間違えて西に向かう船に乗り込んでしまったのである。午後3時にアポイントを入れており、この時点で既に午後1時45分。時間がかなり危うくなってしまったので停留所で飛び降りる。そして反対方面の停船場を探すがよく見つからないので、仕方なくタクシー利用に切り替えることに決める。

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後になって知ったことだが、僕が降りたこの停船場は終点であり、奥に見えている寺院はワットサケートというバンコクの街を一望できる観光名所であるらしい。さて、船を降りて辺りに沢山停まっているトゥクトゥクに乗っても良かったが、利用する前からボラれてしまうのではないかと何だか怖気づいてしまい、普通のタクシーを探すことにする。しかしなかなか空きのタクシーがつかまらず焦りが募る。やっとの思いでつかんだタクシーに行先を伝えるも、「今、市の中心部は交通規制がかかっているから、一旦Phaya Thai という場所まで行きそこからBTSに乗って向かう方が良い」とのこと。地図で調べると確かに別に遠い場所でもなく、実際中心部にかけてかなり渋滞が激しいようだったので運転手の言う通りに従う。なかなか前に進まないタクシーに、どうしようもないことを知りながらイライラと貧乏揺すりをしつつ、やっとのことでBTSの駅につき、ちょうどやってきた列車に飛び乗った。

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いつの時間帯も渋滞が激しいバンコクの街。

最寄り駅に着くと、ギリギリでアポイントの時間に間に合いそうだった。しかし小走りでgoogle mapの位置情報を頼りに待ち合わせ場所のオフィスに向かい、レセプションで「Iさんとアポイントがある」と伝えたところ、僕が目指しているオフィスではなくIさんという同じ名字の人が偶然住んでいるマンションの一室に案内されたので思わず苦笑。googlemap 上の位置情報があまり正しくなく、表示された場所がマンションであるようだった。この時点で約束の時間を過ぎていたので「これは終わった」と思いながら、「大変申し訳ございませんが、道に迷いましたので少し遅れます...」という旨連絡をし、外に出ると今度はスコールに降られる。ずぶ濡れになりそれでも目的地が見つからず、藁にもすがる思いで近くのマッサージ店で道を聞いたところ、英語のできる店員を呼んでくれて調べてくれた。

この店員はとても親切で「この2軒隣のビルですよ」と言いつつ、別の従業員に言付けて濡れた体を拭くためのタオルを持ってきてくれた。感激してお礼を言い、「あとで寄ってくださいね」という声を後ろにすっかりスコールの上がった中を歩いた。

ようやく着いた場所で仕事は一応こなしたものの、物見遊山をしたばかりに約束の時間に遅刻するのは社会人として失格だと思いながら、少し落ち込みつつ最後の食事。

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ソムタム。パパイヤの細切りサラダ。生のいんげん豆が少しピリ辛で、色のアクセントにもなっていて良い味を出している。

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カオソーイ。タイ北部~ラオスにかけてよく食べられている麺料理らしい。油で揚げられた麺をカレースープに絡めて食べるとおいしい。 

そうこうしているうちに帰りの飛行機の時間が近づいてきた。名残惜しさを感じながら、空港への道を急いだ。直行便で日本までわずか6時間強。日本に帰国するといつの間にか導入されたパスポートの自動読み取り。帰国審査が効率化されているのに驚きと時代が着実に前に進んでいるのを感じながらながら帰路についた。

こうしてあっという間に1週間が過ぎていった。