休学中の記録

鹿児島のビジネスホテルと一人グルメ

一人で旅行をするとき、食事は簡単に済ませます。

簡単に済ませるといっても、何かしらその旅先に関連したものが食べたいので、スーパーでご当地食材を物色します。とはいえスーパーマーケットというものは全国どこに行っても大きな変化があるわけではなく、必ずしも特別なものが見つかるわけではありません。結局代わり映えのしない半額の弁当を買って、せめて翌朝飲む牛乳はご当地牛乳を買って無理やり自分を納得させるようなパターンに終わることが往々にしてあるわけです。

しかしその点、鹿児島のローカルスーパー「タイヨー*1」は天国のような場所でした。

鳥刺しコーナーが大きく、ささみからもも肉まで、食べ方もタタキから九州の甘醤油をかけるものまで多種多様な選択肢が用意されていました。そして刺身コーナー(魚)には地物がたくさん並んでいました。更にありがたいことに、夜の9時くらいに訪れるとこれらはいずれも半額シールが貼られていました。地元養鶏場の鳥刺し、枕崎産のカツオのたたき、長島町産の鯛の刺身を買っても600円程度。奮発してカップ焼酎を合わせても900円くらいでした。

ビジネスホテルの一室にいそいそと戻り、一人晩酌を楽しむ時間はいつになく充実していました。

最後は温かいものが食べたくなったので、〆にラーメンを食べに行きました。鹿児島ラーメンの名店、「ラーメン小金太」でチャーシュー麺。遅い時間まで空いていて、夜11時になっても厨房も客席も賑やかでした。

食べ終わってまたホテルに帰ってから大浴場で汗を流し、ベッドの上に寝転がって地図を見ながら翌日の計画を再確認しました。そして、気分良く眠りにつくことができました。 

翌朝、ホテルの窓から

ホテル法華クラブ鹿児島

今回泊まったのはホテル法華クラブです。私はこのチェーンのホテルが好きなのですが(宿泊費が手ごろで、快適で、朝食がおいしい)、今回は全国旅行割のおかげでさらに格安に宿泊ができました。鹿児島の法華クラブも例にもれず朝食がおいしく、立地も良く、温泉の大浴場もあっておすすめです。

*1:ロゴマークの太陽の図柄と、「タイヨー」のフォントの字体は、往時のダイエーを思い起こさせるものがあり、懐かしさを覚えます。

桜島のある風景

高校2年生の時、友人と九州を一緒に旅行しました。青春18きっぷを使った旅で、神戸港から夜行フェリーで大分港に入港し、大分からは阿蘇、人吉、鹿児島、枕崎と旅をつづけました。

私も友人も個人主義的なところがあって、旅の始まりと終わりの数日間は一緒に行動したのですが、鹿児島に着いてからの1日間はそれぞれの興味にしたがって別行動にしました。友人は確か日南方面の鉄道の乗りつぶしの旅に出かけ、私はその間、開聞岳山麓を歩き回っていました。

そしてその日、1日の行程を終えて1人で宿泊したのが桜島ユースホステルでした。設備は古く、私が着いた時にはほかに宿泊客もおらず閑古鳥が鳴いていましたが、それでもやがて同じ部屋に3人の宿泊者が続々と到着すると急ににぎやかになりました。

1人目は世界一周旅行中のオランダ人で、シベリア鉄道などを乗りついで日本にやってきたバックパッカー

そして2人目はケニア出身で今は日本で英語教師をやっているという人で、3人目は滋賀県出身で九州を旅行中の大学生でした。

これまでそうした旅宿の雰囲気に触れたことがなかったので、私はつい興奮して積極的に旅人達と交流を図りました。

姶良カルデラの外輪山と鹿児島市

地理の授業の受け売りで、頼まれてもいないのに姶良カルデラ錦江湾の成因をブロークンな英語でケニア人に解説し、「温泉には入らない」というオランダ人に「それは非常にもったいないから入った方がよい」ということをお節介に力説してまわりました。

今から考えると恥ずかしいですが、何事も初めての体験というのは新鮮でワクワクするもので、とにかく楽しかったのだと思います。

夏の九州の日は長く、夕立の後には夕日に照らされた桜島の荒々しい山肌が姿を見せました。やがて日が沈むと対岸の鹿児島市街の夜景が綺麗でした。

ユースホステルは港から坂道を上った高台に位置していて、部屋の窓から身を乗り出すとなかなか良いアングルの眺めが楽しめるのでした。

さて先日、12年ぶりに桜島に上陸しました。青春の旅の記憶をたどって、桜島ユースホステルのあった場所も訪れてみましたが、残念ながら2020年に廃業してしまったということでした。

しんみりとした気分になりましたが、気を取り直してレンタカーで思い出の山・桜島を色々な角度から眺めることにしました。

桜島はどこから見ても絵になりましたが、一番綺麗だと感じたのは海潟漁港でしょうか。目の前で桜島がドーンと噴煙を高くあげるなか、穏やかで透き通った青い海面に釣り糸を垂らす人々の姿が何とも気持ちよさそうでした。

錦江湾に浮かび、噴煙を上げる桜島を飽きるまで眺め、共同浴場で風呂を浴び、一帯で養殖されているカンパチを食べてから帰途につきました。

海潟漁港から眺める桜島

カンパチ丼

半田そうめんと吉野川

在宅勤務の時や週末の昼ごはんは、簡単に済ませられる麺類にします。作り置きのカレーに出汁をかけてカレーうどんにしたり、身欠きニシンが安ければニシン蕎麦を作ってみたり。毎日少しずつであっても変化をつけると、楽しく過ごせるような気がします。

そんな中で、最近おいしかったのは「半田そうめん」です。

半田そうめんは、四国徳島県吉野川上流、つるぎ町のご当地麺で、ツルツルとした口触りとコシのある食感が特徴的です。半田手延べそうめん共同組合のウェブサイトには次のように紹介されています。

半田そうめんの歴史は古く、実に200年の伝統を誇っています。四国山脈から吹き降ろす冷たい風と、吉野川の澄んだ水。そして良質の小麦から作られる、半田の優れた風土を象徴する特産品「半田そうめん」。半田そうめんの特徴は、やや太めでコシが強いことです。

今回はカニ風味かまぼこと薄焼き卵、ネギの組み合わせで彩り豊かにしてみました。喉越しが良すぎて、もったいないくらい一瞬でツルツルツル...とお腹の中に入ってしまいました。

食べ終わってからすぐお皿を片付ける気にもなれず、ぽけーっとしていると、ふと吉野川流域の情景がよみがえってきました。昔ワンゲルの友人と四国を自転車で旅行した時、最終日は阿波池田から吉野川に沿って、フェリーが発着する徳島港を目指してペダルを漕ぎ続けました。途中の橋の上から見た山並みと清涼な吉野川の風景は今でもよく覚えています。そういえば、ちょうど時期は今と同じ9月上旬でした。

懐かしくなって、つい昔のアルバムを開いて写真を見ていると、感傷的な気分になりました。当時一緒に四国を周遊した友人とは、卒業してから連絡する機会もほとんどなくなってしまいましたが、元気にやってるんやろうか、、と。

そうこうしているうちに1時間の休憩時間も残すところ数分になってしまいました。急いでお皿を洗って、また全然気が乗らない職場のルーティンワークに戻るのでした。

 

 

5月の佐渡の景色

佐渡加茂湖と大佐渡山脈の山並み

昨年のGWは佐渡にいました。ドンデン山から金北山までを縦走し、下山してからは金井にある小さな民宿に泊まりました。

金井は佐渡の中央部、国中平野のちょうど真ん中あたりに位置していて、周りには離島とは思えないような広大な水田が広がっています。

夕暮れ時、民宿の自転車を借りて、そう遠くない場所にある温泉に行きました。外は少しひんやりとしていて、でも寒さは感じないような心地よい気温でした。

一風呂あびて、外に出るともう真っ暗でした。道はところどころ街燈が無いところもあって、自転車のライトをつけながら慎重に進みました。

両脇の田んぼは水を張ったばかりで、早くもカエルの声がたくさん聞こえていました。道の途中で自転車を漕ぐ足を止め、ライトを消し、深呼吸しました。今でも少しひんやりとした5月の夜、目を閉じるとそんな佐渡の空気感を思い出します。 

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翌日、車で再び金北山まで上がりました。前日に徒歩で上がった時は、日本海からの強風に見舞われて視界がゼロだったのですが、この日の視界はクリアでした。

水を張ったばかりの田んぼの間には、立派な屋敷林に囲まれた民家が点在しています。よく目をこらすと、色とりどりの鯉のぼりがはためいている家もありました。

集落は自然条件に実に忠実に分布していて、開発の手が及ぶ前の日本の里山の風景を思わせました。

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佐渡に来るのは今回が2回目でした。今回は3泊滞在しましたが、それでもまた行きたいと思えます。

派手な景勝地はありませんが、何度来ても良いと思える素敵な島です。

 

台湾の隔離生活と「救国団」について

妻の出産のため、昨年末に台湾に渡航しました。そして2週間の隔離生活を送りました。

隔離中の滞在先ですが、剣潭にある「救国団青年活動中心」というところを選びました。隔離先でどんな部屋を割り当てられるか指定はできないのですが、運良く見晴らしの良い部屋を割り当ててもらうことができました。

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晴れた日には窓から大屯山の山並みが見えます。そしてMRTの信義淡水線が眼下の高架を通り過ぎていきます。仕事に疲れた時には、そんな風景に日々癒されていました。

さて、この宿泊施設を運営する「救国団」という少し変わった名前の組織についてです。

この組織はもともとは1950年代、反共政策の中で青少年の思想教育を目的として設立された組織でした。当初の名称は「中国青年反共救国団」というものでした。

ところが時代の変遷と共に思想統制的な色彩は弱まっていき、やがて夏季休暇や冬季休暇の野外活動を主な活動内容とするように変遷していきました。

昔の記録を見ると、1960年代には既に合歡山でのスキー活動や、中部横貫公路の完歩イベントなど多彩な活動を展開していたようです。

まだ海外旅行が一般的でなかった時代、救国団の活動は台湾におけるレジャーの先駆けともなりました。このため、今の台湾の中高年の人にとって、学生時代に救国団の活動に参加した思い出は、一種青春を象徴する思い出になっていたりするようにも思います。

...そんな救国団も時代の変遷と共に活動内容を縮小し、冷戦の終結からしばらくして、組織名も「中国青年救国団」になりました。つまり、組織名から「反共」の文字が消えたわけです。

「そんな救国団の歴史を知るのも面白いですよ~」という話を知り合いとしていると、

「でも、今こそ反共救国の名前が必要なんじゃないですかね。2027年までに統一とか、どういう計画で目標掲げているのかわかりませんが、、ほんとやめて欲しいです。」というコメントが返ってきて、それには首肯せざるを得ませんでした。

子どもを授かってから、台湾の置かれた国際情勢をより敏感に感じるようになった気がします。以前なら中国人に「台湾は中国の核心問題」と言われても、「まぁそういう立場もあるよね」とある意味聞き流せたのですが、最近はなかなか聞き過ごすことができなくなってきてしまいました。

以前の自分が少し懐かしいですが、こればかりは私のせいではないですし、仕方ないかな...と思っています。