休学中の記録

台湾の地名について(原住民族と関わりのあるもの)

台湾の山名と原住民

台湾の地名と原住民の関わりを意識するようになったのは、2016年に聖稜線の山々を歩いた時だと思う。聖稜線は台湾岳人憧れの山岳縦走ルートなのだが、その途中に凱蘭特崑山(3,731m)や穆特勒布山(3,626m)のように、字面からは意味がわからない漢字の組み合わせで表記される山々がある。後になって、これは原住民の呼称に漢字を当てた山名が多いからだということを知った。

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穆特勒布山(3,626m)の断崖絶壁

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原住民の呼称に基づく山名は、日本統治時代には北海道の山と同じように片仮名表記で呼称されていた。※画像来源:鹿野忠雄(1934) 臺灣次高山彙に於ける氷河地形研究(第1報) 地理学評論10:607

台湾の山には、このように原住民の言葉を音訳した山名がたくさんある。括弧内に日本統治期の表記を合わせて記載しながら紹介すると、

喀西帕南山(カシパナン山)、庫哈諾辛山(ウハノシン山)、海諾南山(ハイノトーナン山)、馬利加南山(マリガナン山)、馬博拉斯山(マボラス山)、克拉業山(カラヘイ山)、帕托魯山(パットル山)・・・

というように例を出しはじめるとキリがない。ところが、これらの山名の由来を一つ一つ明らかにしていくのは難しい。その理由として考えられるのは、

  • 原住民の中でも数多くの部族に分かれ、それぞれによる山の呼称が違うことがあるから。
  • もともとある場所を指していた山名が何らかのタイミングで別の場所の山名として定着することがあるから

など様々あると思う。

例えば台湾中央山脈には八通関山という標高3,335mの山があるが、この山名の「八通関」は台湾原住民のツオウ族が台湾最高峰の玉山を指していた「Pattonkan」の音訳から来ている。

そもそもなぜ玉山を指していたはずの「Pattonkan*1」という呼称が八通関山に用いられるようになったかというと、まず清朝時代の末期に呉天亮という人が台湾の東西横断道路を修築した際、その要所の地を四通八達の意味から「Pattonkan」に「八通関」の文字を当てて表記したことに始まるようだ。

八通関の地は玉山の山麓に当たるので、あながち玉山と無関係な場所ではないのだが、いずれにせよこの際にもともと「Pattonkan」が指していた玉山山頂と、その音訳の「八通関」の場所にズレが生じることになった。複雑なのは、更にその後八通関の向かいにある山が慣称として「八通関山」と呼ばれるようになり、いつの間にか地図上の地名として定着していったことだ。

このように山名が本来指していた場所から移動することは稀ではない。馬博拉斯山(3,785m)もその例で、「馬博拉斯」はブヌン族による呼称である「Mahudas(白髪の老人の意)」の音訳だと言われているが、「Mahudas」がもともと指していたのは中央山脈最高峰・秀姑巒山(3805m)だったという。日本統治期に誤った同定がなされたことで、もともと指していた山とは別の山名として定着することになった。

台湾で多くの人が知る名峰の山名ですらこの通り複雑なので、他の山名についてなおさら由来を追いにくいのが現状だ。様々な文献を当たってみても確固とした山名の由来が確認できるものは少ない。

台湾原住民族の部落名

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河岸段丘上にある利稻部落。背後には關山(3,668m)を筆頭に3500m級の山が聳える。

山名の他に原住民の言葉を音訳した地名が多いのは部落*2の名前だ。例えば、司馬庫斯、鎮西堡などがその例で、日本統治期にはそれぞれスマンクス、チンシボと片仮名表記で記載していた。戦後になるとこれらの部落名には漢字が当てられるようになった。

ところが、先ほど挙げた司馬庫斯などの例外を除くと、現在必ずしも単純な音訳になっていない部落名も多い。これは、恐らく行政表記上の都合で漢字化する際に無理矢理2文字に収めようとしたからではないかと考えられる。

もともと短かった地名はブタイ→霧台、ウライ→烏來、リト→利稻、トナ→多納 イラ→伊拉、ソロ→蘇樂のように音訳しても2文字に収まるのだが、それ以上になると音訳では2文字に収まらない。このためチカタン→七佳、ブルブル→霧鹿、マテングル→摩天のように元の発音を短縮してから2文字に音訳しているように見受けられるケースが多く見られる*3

また、それ以外にもピヤナン→南山、シカヤウ→環山、タツキリ→崇徳、グークツ→和中、サカダン→大同というように元の音とは全く関係のない新しい2文字の(しばしば政治イデオロギーの意を含んだ)地名が賦与されてしまった場合も多かったようだ。このため現代の部落名からはもともとの地名がたどれなくなってしまっている部落も少なくない。

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樂山(瑪崙)部落の水田。現在は有機天然乾燥米の栽培が盛んだ。

もともとの部落がどのような名前であったかを調べるには、台湾百年歴史地図などの地図閲覧サービスを利用すると良い。例えば参謀本部陸地測量部作製の地形図とGooglemapを重ね合わせると、日本統治期~現在にかけての地名の変遷を確認できる。

その上で、旧部落名の由来については多くが安倍明義(1938)『台湾地名研究』に記載されているので、それぞれの由来を一つ一つ参照していくことができる。

原住民と漢民族の関係を示す地名

日本統治時代に、台湾の山岳地域が「蕃地」と呼ばれていたのはご存知だろうか。「蕃地」に入るためには所轄の警察から「入蕃許可証」というものを入手する必要があった。

このように原住民居住地域に境界線を引く制度は、台湾で古くから実施されてきた。清朝時代には漢人移民と原住民との接触によって起こる騒乱を避けるため、「土牛溝」「隘勇線」等と呼ばれる境界線を設置したり、石碑を設置したりして、それより奥の漢人の開墾を制限していた。こうした歴史を物語る地名は台湾各地で見られる。

(上)台北に残る「石牌」の地名 (下)「土牛」の地名も各地に残る。

また、原住民の部落は「社」と呼ばれていたが、その名残は社頭、社寮、水社などの地名に残されているし、番婆、番路などのいわゆる「番(蕃)」のついた地名も各地に見られる。

こうした地名が平野部にも多く見られることは、原住民が山岳地帯にとどまらず平野部にも広く分布していたことを物語っている。「平埔族」とまとめて呼称される平野部の原住民は、やがて漢人との通婚などを経て同化が進んでいったと言われているが、私達は地名を通じてその歴史の一端を知ることができる。

地名の「回復」について

2020年1月の台湾総統選挙の際、蔡英文が投票日前日の最後の演説で聴衆に語りかけていた内容が興味深い。

你們其中有些人可能不知道,我們現在所在的地方,過去叫做介壽路,就是爲了恭祝威權時代的統治者萬壽無疆所取的名字,這裏是台灣從威權到民主的過程最關鍵的地方,凱達格蘭大道的歷史就是台灣民主改革的歷史。

(今ここにいる皆さんの中にはご存知ない方もいるかもしれませんが、今、私達がいるこの場所は、かつて「介壽路」と呼ばれていました。「介壽路」というのは、戒厳令時代の統治者(蒋介石)の長寿を願ってつけられた名前です。この場所は台湾が戒厳令統制下から民主社会へと発展する過程の中で最も重要な役割を果たした場所です。「凱達格蘭大道」の歷史は台湾の民主改革の歴史そのものなのです。)

蔡英文は凱達格蘭大道の名前の変遷に触れながら台湾の民主化の歩みを紹介した。凱達格蘭(ケダカラン)はかつて台北盆地一帯に居住していた原住民(平埔族)の名前で、この道路名の改名は台湾の民主化・本土化を象徴するものだったと言える。

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総統府前の「凱達格蘭大道」

台湾ではこのように戒厳時代からの決別、本土化、民主化の文脈の中で地名を見直す動きが高まった。原住民族地区でも自らの言語による地名へ改名したり、元の地名を「回復」したりする例が見られるようになった。

例えば台湾高雄市の「那瑪夏区」は、1957年に郷内の3つの村が民族、民権、民生と改名され、合わせて「三民郷」とされていたものを、2007年に原住民の言語に則って命名し直したものだ。

少数民族や先住民の古来の地名を保護、回復するのは今や国際的な潮流だ。例えばオーストラリアの「Uluru/Ayers Rock」やニュージーランドの「Aoraki/Mount Cook」に見られるように、先住民による地名と通称を併記し、かつ先住民の言語を先に記載する例が多く見られるようになっている。

5年に1度開催されている国連地名標準化会議においても、Geographical Names as Cultural Heritage(文化遺産としての地名)という作業部会が設けられ、先住民や少数民族の地名を文化遺産として振興するための議論が重ねられている。

https://unstats.un.org/unsd/geoinfo/UNGEGN/wg10.html

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ニュージーランド最高峰のAoraki/Mount Cook

台湾における原住民族の地名尊重の背景には、こういった国際的な潮流との連動も感じられる。台湾で2005年に制定された原住民族基本法の第11条には、以下のような規定がある。

政府於原住民族地區,應依原住民族意願,回復原住民族部落及山川傳統名稱。

(政府は原住民族地区において、原住民族の意向に従って部落及び山・川の伝統的な名称を回復しなければならない)

この規定は固有の地名への尊重、ひいては原住民族による地名の自己決定権を表現したものとも言えるだろう。

伝統領域と伝統地名

原住民族基本法で地名回復に関する規定が盛り込まれたものの、その後実際に行政的な地名が改名された例はまだまだ少ない。ここでは詳論しないが、そもそも「回復」というのは単純に片付けられる問題でもないだろう。

一方で、ミクロなスケールでの台湾原住民族の伝統的な地名については、2000年代に行われた「伝統領域調査」で明らかにされていった。伝統領域というのは、原住民族が昔から狩猟、耕作、祭祀などに使ってきた生活領域のことだ。「伝統領域調査」では、台湾全土の原住民部落周辺の伝統地名を部落の高齢者へのヒアリングをもとに掘り起こし、GIS技術を用いて「部落地図」という形で地図化していった。

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例:南山部落における伝統領域調査の一部

こうした部落地図に記載されている伝統地名は、行政的な地名ではないので私達が通常使う地図で確認することはできない。ただし原住民族委員会のホームページで報告書を確認することはできるので、興味のある人は覗いてみてはいかがだろうか。伝統地名は生活の必要の中でつけられてきたものがほとんどで、地名を通して昔の生活を窺い知ることができるのが面白い。

 

最後に

はじめはカジュアルに地名を紹介しようと思ったのだが書き進めるうちに、あれもこれも・・・と随分長くなってしまった。もちろん上記が全てではないものの、地名という切り口から見えてくる台湾の姿に少しでも興味を持っていただける人がいれば嬉しいなぁと思う。

 

 

*1:アルファベット表記の方法は数種類あるようだが言語学的にどの表記を用いるのが適切かはわからないので、多く見られた表記に倣った。

*2:「部落」と書くと、日本人には被差別部落のようなどこか貶めるニュアンスを感じるかもしれないが、台湾では原住民の集落のことを一般的に部落と呼んでおり、語義としても中立的に使われているため、現地の呼称に従った。

*3:ここでは「もともとの地名」を片仮名表記で記載しているが、それは日本人にとってわかりやすいから便宜的に使っているだけで、一般的には原住民の言語による地名はアルファベット表記で記載されていることが多い。

台湾マンゴーの季節

台湾への果物旅行について

台湾は「果物王国」と言われるほど果物が豊富だ。バナナ、パイナップル、パパイヤ、グァバ、蓮霧、釈迦頭、文旦(柚子)などの熱帯果実はもちろんのこと、高い山脈が連なるため山地の冷涼な気候を活かしたリンゴ、梨、桃、柿などの温帯果実栽培も盛んだ。およそ台湾で食べられない果物は無いと言っても過言ではないだろう。

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台湾の街角には時折このような大規模なフルーツ店がある。物珍しそうに果物を眺めていると、お節介な歐巴桑(おばさん)の買い物客が話しかけてきて新鮮な果物の選び方を(どこまで信じて良いのかわからないものの)教えてくれたりする。

さて、そんな台湾で数ある果物の中でも王様的な存在なのがマンゴーだ。マンゴーの産地は台湾の南部に集中している。台湾南部には懐かしい風景の街がたくさんあり、旅行先としてもとても魅力的な場所だ。ローカルな朝食店で朝ごはんを食べ、名所旧跡を訪れ、そして観光の合間に旬のマンゴーを心ゆくまで食べる、というような旅も良いのではないだろうか。

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台南・安平古堡

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屏東県東港の東隆宮。東港は海鮮も楽しめる港町

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高雄・光華夜市のフルーツドリンク屋。

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今年の台湾マンゴー

...今年も台湾に是非行きたいと思っていたのだが、新型コロナウイルスの流行もあり、往来が自由化されるのがいつになるのか見通しがつかない状況が続いている。そんな中、去年東北旅行を共にした台湾の友人からマンゴーを送ってもらった。

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箱を開けると艶々のマンゴーが12個も入っていて思わず感嘆の声を上げてしまった。早速届いたその日から妻と2人で毎日1個ずつ食べることに決め、色んな食べ方を試してみることにした。

マンゴーの切り方

よくアイスクリームのパッケージなどに描かれているような、さいの目状に切り込みの入った綺麗なマンゴーの切り方をやってみたかったので、youtube動画を見てチャレンジしてみた。

ドライマンゴーは何度も食べたことがあるが、生鮮マンゴーを食べるのはよく考えると10年ぶりくらいかもしれない。マンゴーについては全然知識がなく、もともと中にアボカドのような丸い種が入っていることを想像していたのだが、実際には平たい石のような種が入っている。その種の方向に合わせて、種が切り口に干渉しないように1/3ずつの幅でカットするというのがポイントのようだ。

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もう少し細かく切った方が割れ目が綺麗に出てくるかもしれないが、悪くはない。

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1個目のマンゴーは、半分はそのまま、もう半分はバニラアイスクリームに乗せて食べた。残った種の周りの果肉はスライスしても良いし、あまり行儀は良くないがそのまましゃぶるのも悪くない。

アイスクリームは好みもあるかもしれないが、ハーゲンダッツ(バニラ味)に合わせると意外とバニラ味が強かった。マンゴーの味をより楽しむには、素朴なミルク風味のアイスクリームと合わせると更に良いかもしれない。

またアイスクリームのみならずクレープを作って中に入れたり、色んなスイーツと組み合わせても良いので、楽しみ方は無限大と言えるだろう。

台湾マンゴーに関する情報

良い機会なので台湾マンゴーについて基本的なデータや流通構造を調べてみることにした。以下、古関(2016)を参考にしつつ、統計データも参照しながらまとめてみる。

台湾マンゴーの生産地⇒南部がほとんど

まず台湾のマンゴー生産は南部がほとんどを占め、『農業統計年報(2018)』によると、台南市(61,382トン)、高雄市(16,197トン)、屏東県(56,796トン)で合わせて台湾の国内生産量の9割以上を占めている。

台湾マンゴーの季節はいつなのか⇒6月から7月

台湾政府の輸出入統計(『中華民國進出口貿易統計』)で日本向けの鮮芒果(生鮮マンゴー)輸出量を確認すると、数字の記載があるのは5月~8月のみで、うち6月と7月の2ヶ月で9割5分以上を占めていた。つまり日本市場向けの台湾マンゴーは概ね梅雨の時期に集中的に出荷されていると考えて良さそうだ。

台湾マンゴーの種類⇒アーウィン種がメイン

台湾から日本に輸出されている主な品種はアーウィン(Irwin)種と呼ばれるもので、宮崎マンゴーや沖縄マンゴーなど、日本で消費されるマンゴーの多くはこの種類のようだ。果肉が柔らかくて甘みが強いのが特徴で、皮が赤いので、「アップルマンゴー」と呼ばれることもある。

台湾ではアーウィンを音訳して「愛文」というように表記している。日本市場向けに出荷する場合は糖度、果皮の赤い面積の割合などに基準があり、厳格な条件をクリアしたマンゴーが輸出されている。

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台湾の日系百貨店で贈答用のものを注文、発送することができる。
台湾マンゴーの農園登録制度とトレーサビリティ

今回送られてきたマンゴーには1個ずつにシールが張られ、生産者の名前と追跡番号(追溯碼)が記載されていた。古関(2016)によると、日本向けのマンゴーには生産者に個別の追跡番号が与えられているという。そうすることで品質や残留農薬等で問題が発生したときに追跡したり、栽培履歴を確認したりすることができる。

また、台湾のマンゴー輸出業者は日本市場向けマンゴーの供給園とその生産者名簿などをマンゴー園が所在する県(市)政府に提出し,毎年2 回の審査を受けなければならないという。

このように台湾では国を挙げて安心安全でおいしいマンゴーの供給に努めているようだ。機会があれば是非台湾マンゴーを楽しんでみてはいかがだろうか。

参考文献

古関喜之 2016.ポジティブリスト制度導入後の台湾における日本向けマンゴー産業の展開. 地理学評論 89‒1: 1-22.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj/89/1/89_1/_pdf/-char/ja

台湾の地名(日本人と関わりのあるもの)

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台湾を旅行したことがある人であれば、日本風の地名と出会って不思議な気持ちになったことがある人もいるのではないだろうか。あるいはもしかしたら、あまりにも自然に現地に根付いているので、あくまで台湾にある数多くの地名の一つとして特に注意せず通り過ぎてしまう人も多いかもしれない。

私も台湾に通い始めた初期の頃は「板橋」「松山」などの地名を見ても特に違和感を感じず、ましてや立ち止まってその地名の由来を調べることなどはなかった。ところが後になって東部を旅行した時、「瑞穂」「鶴岡」「舞鶴」などの地名を見たのをきっかけに、これはどうも由来があるらしい、ということに無意識に感づくようになった。

そしてその後台湾の山岳地帯に出入りするようになって「見晴」「川中島」などの地名を発見し、更に先の記事にも触れたが「關原」=「関ヶ原」の歴史故事をきっかけにして台湾の地名に興味を持つようになった。

さて、今回の記事では「日本人と関わりのある台湾の地名」ということで、よく知られている地名の他に、少しマイナーな日本語地名も含めて紹介していこうと思う。また、地名だけを紹介するのも無味乾燥なので、適宜観光紹介もしていくつもりだ。

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台湾政府の教育部Facebookアカウントに投稿された、日本語由来の台湾地名。
台湾教育部の投稿はわかりやすく、イラストも綺麗で、内容も面白い。
(ただし、ここで紹介されている地名の由来の内容については諸説ある)

日本人と関わりのある台湾地名の由来と種類

台湾では日本による領有以降、随時各地の地名が変更されてきた。特に1920年の地方行政区画変更に合わせて一斉に多くの地名が変更されており、この際の地名変更の結果が現在まで残っている例が多い。

また、東部の花蓮・台東など関しては1910年代から入植がはじまった官営日本人移民村に内地風の地名が見られるほか、1937年に地方改制があり、その際に多くの内地風の地名が導入された。

日本統治期に導入された地名の特徴としては、主に下記のパターンがあるようだ。

※整理の仕方は文献によって異なる。以下は様々な文献を参考にしつつ、私なりに理解しやすいように自己流に整理しているに過ぎないので、あくまで一つの参考としていただければ幸いだ。

①日本内地の地名と共通するもの

台湾には日本の内地と共通する地名が多い。こうした地名には、明らかに意図を持って既存の内地の地名を導入したと考えられるものもあれば、内地風の原則に従って地名を命名する中で既に内地にある地名と共通する地名がつけられることになったパターンもあるように思われる。以下に例を紹介していこう。

松山

もともとはバサイ族の言葉で「河の曲がったところ」を意味する「syakkaw」を閩南語読みで音訳して「錫口」という地名だったが、1920年に内地風の「松山」という名前に改名したという。ネット上には四国松山と風景が似ているから「松山」と名付けたと書かれているものもあるが、私がいくつか文献を確認した中では附近の山林に松の木が多かったことから「松山」と改称した、という説が多かった。

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松山は台北市内から最も近い松山機場(空港)が立地しており、また松山慈祐宮や饒河街の夜市が見所だ。
舞鶴

安部明義の『台湾地名研究』によれば、現地のアミ族の言葉で物々交換を意味する「マイブル」に「舞鶴」の漢字を当てて表記したそうだ。

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舞鶴珈琲(Photo courtesy of Taiwan Tourism Bureau)

舞鶴は台地上の水はけのよい土地で、1930年代に住田物産株式会社が官有地の払下げを受けて珈琲の企業的栽培を開始した地だ。住田物産は当時日本の委任統治領だったサイパン島で珈琲栽培を行っており、それに続く産地として開発を進めたという。

戦後珈琲産業は衰退し、代わりに茶園が開発されて茶産地として有名になっているが、「舞鶴珈琲」 もスペシャティーコーヒーとして少量生産されているようだ。

鶴岡

花蓮県にある地区の名前で、1937年にもともとあった「烏鴉立」という地名を「鶴岡」に改名している。「烏鴉立」と鶴岡は発音が似ているわけでもなく、また山形県人と関わりがあった記録などは特に見つからなかったので、由来はよくわからない。

花蓮県ではこの他にも春日、大和、三笠*1、長良など1937年に内地と共通する地名に改名されている例がたくさんあり、日本化を強力に推し進める時代背景もあったのかもしれない。

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日式家屋の前に並べられたバナナや文旦などの果物。後ろに「鶴岡文旦」の箱。

鶴岡では「鶴岡文旦」が有名だ。文旦は台湾で一般的に「柚子」と呼ばれており、中秋節の頃によく食べられている。果肉はグレープフルーツに似ていてジューシーで、酸味や苦みはほとんどなく、ほんのりとした甘さがあっておいしい。

川中島

川中島は、霧社事件の後に生き残ったセデック族を集団移住させて作られた部落の名前だ。川の中島ではないようだが、附近に三本渓流が並行して走っているところから川中島と名付けたらしい。水田耕作が導入され、部落の生活は激変した。

戦後「清流」部落と名前を変えたが、「川中島」の呼称も少し残っている。

高雄

もともとは付近に暮らしていた原住民の言語でターカウ(竹林の意)と呼ばれ、清代には当て字で「打狗」(犬を打つの意)と表記されていた。その後1920年の行政区域再編にあたって内地風の地名への改称が実施され、「打狗」は京都市郊外の地名に倣って「高雄(たかお)」という表記へと変更された。戦後、漢字はそのままで発音のみが中国語読みとなり、「高雄(gāo xióng)」と呼ばれるようになっている。

漢字の日本語読みと中国語読みが違うために、現在の地名の発音が元の地名の発音とかけ離れるようになっている。

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高雄で最も高い建築の85大樓と高雄輕軌(LRT

内地と共通する地名はその他にも美濃、岡山、竹田など様々な地名があるが、挙げだすとキリがないのでこのあたりにしておこう。

②もともとの地名を読み方が類似する漢字で日本風に表記したもの

萬華 

もともとは原住民ケダカラン族が交易などに利用した木製カヌー「banka」の呼称を音訳して「艋舺」と地名表記されていたそうだ。ところが、1920年の地名改制の際に、より日本人に馴染みのある漢字に置き換えるということで「萬華(ばんか)」と地名が改称された。以後現在までこの地名が使われているが、漢字の日本語読みと中国語読みが異なるために、「banka」⇒「wàn huá」と、もともとの地名の読み方からかけ離れることになってしまっている。

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龍山寺

萬華は龍山寺を中心にして下町風情が色濃く残る地区だ。淡水河に沿ったこの地区は古くから交易によって発展し、現在の台北の発展の元となった場所でもある

瑞穂

水尾という地名であったところを、1911年に「豊葦原の瑞穂の国*2」から取って発音の似た「瑞穂」に改名している。

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瑞穂温泉の受付カウンター

瑞穂は日本統治時代に警察官の療養所としてはじまった瑞穂温泉が人気の旅行先であるほか、瑞穂牧場の「瑞穂鮮乳」も台湾で数少ない国産牛乳として有名だ。

立霧主山、立霧渓

現在の崇徳*3のあたりには、タツキリというタロコ族の部落があった。この部落の名前にちなんで、「タツキリ社」が河口となっている川の名前に立霧渓という漢字をあて、その最上流に位置する山に立霧主山と命名しており、この地名が現在まで変わらず使われている。タツキリ⇒立霧は音訳でもあるし、実際に霧の立ちやすい場所なので意味的にも馴染みやすい命名だった。

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立霧主山(3,070m)と背後の中央山脈主稜線

③日本語風の意訳した地名をつけたもの

汐止

満潮時に基隆河を遡る海水がこの辺りまで達することから、清朝時代には「水返脚」と呼ばれていたところ、1920年に意味はそのまま日本語風に「汐止」に変更したという。 

池有山

池有山は雪山山脈の「武陵四秀」の一角を占める標高3,303mの山だ。タイヤル族によって「Tamarappu」と呼称されており、日本統治期はタマラップ山と表記している文献もあるが、参謀本部陸地測量部1/50000地形図には既に「池有山」と表記されているので、日本統治時代の命名で間違いなさそうだ。実際、この山の周囲に池塘がたくさんあり、それぞれの池をタイヤル族が「Siron ○○(Sironは池の意)」と呼称していたようで、そのことから「池有山」の山名が命名されたと考えられる。

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池有山の山頂直下にある「池有山名樹」

④地名簡略化(主に漢字三文字の地名を二文字に変換したもの)

蘆竹

桃園県の地名で、もともとは「蘆竹厝」という地名だったが、1920年の地名変更で一文字省略された。「厝」の字は家という意味で、蘆竹で作った家があったことから名づけられていた地名だという。

冬山

宜蘭県の地名。冬山と書くといかにも寒そうだが、もともとは冬瓜山という地名で、地名簡略化の中で「瓜」が除かれた。

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台南で飲んだ冬瓜茶。

冬瓜は台湾人には馴染みの深い野菜で、冬瓜茶がよく飲まれているほか、鳳梨酥(パイナップルケーキ)の原料も多くの場合が冬瓜である。

冬瓜山→冬山の地名変更によって土地の記憶が辿りにくくなってしまっている。

鶯歌

「鶯歌石」という地名だったが二文字化の中で「鶯歌」という地名になった。もともとの「鶯歌石」の名前は、近郊にインコの形を彷彿とさせる巨石があることから名づけられたそうだ。

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鶯歌は陶器の町として有名だ。

さて、このように、①日本内地の地名と共通するもの②もともとの地名を読み方が類似する漢字で日本風に表記したもの③日本語風に意訳した地名をつけたもの④地名簡略化(主に漢字三文字の地名を二文字に変換したもの)、と4パターンの様々な例を紹介してきたが、①から④は決して独立したものではなく、しばしば重なりあっている。例えば打狗⇒高雄、枋橋⇒板橋などの例には①と②が重なっているように思われるし、水返脚⇒汐止の場合、①③④が重なっているとも言えるかもしれない。

ただ重なっている部分を別の分類として細分化しすぎると複雑になるので、あくまで主な要素を分解すると主に上記の通りになる、と捉えるとわかりやすいのではないだろうか。

また、以下に数は少ないが、その他に興味深い例も挙げていこう。

追記1:日本人の名前を用いた地名

①~④のパターンとは別に、当時の偉人の名前を利用したパターンの地名(明治町、大正町、昭和町、樺山町、乃木町、兒玉町、明石町、佐久間町)もあるが、このパターンは道路名、町名などに多く、戦後中華民国施政下ですぐに改名されていったため現在ではほぼ全てが消滅している。ただし、花蓮県にある佐久間山、江口山、富田山や阿里山の小笠原山など、一部の山名に残っている。

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佐久間山。第五代台湾総督の名前から。

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江口山に残る三等三角点。「江口山」は花蓮港庁の庁長を努めた江口良三郎にちなんだ命名だと言われる。山頂の展望はないが「太魯閣七雄」に数えられる名峰だ。

追記2:林森北路に残る〇條通

日本統治時代に名付けられた道路名の名残をとどめる例として、林森北路一帯が挙げられる。このあたりは、日本統治期の大正時代に新しく区画・開発され、「大正町」と呼ばれる屋敷街だった。大正町の通りは、はじめイ通り、ロ通り、ハ通りなどと呼ばれていたようだが、やがて一條通り、二條通り、三條通り・・・と一條通りから九條通りまでが名付けられた。

戦後になるとこうした呼称は廃止され、一條通り~九條通りの名前も地図上には残されていない。しかし現在でも「〇條通」という呼称は習慣的によく使用されており、例えば一帯の飲食店の店名をみると「八條老宅麻辣鍋」「六條通按摩店」のように「○條」を冠した店名が多い。位置を指し示すのに便利でわかりやすいからかもしれない。

...その他に公式的ではないが通称として広く用いられている地名としては、「台湾の原宿」などと呼称される「西門町」も一つの例だろうか。私が知らないだけでもしかしたらもっと色んな例があるのかもしれない。

...いつの間にか地名の由来をまとめるつもりが観光紹介のようになってしまった。台湾を旅行するとき、訪れる場所の地名の由来にも少し思いを馳せてみると、また違った楽しみ方ができるだろう。

前回の記事では、「次回原住民と関係のある地名を紹介する」と書いたが、思ったより奥が深く、時間がかかりそうなのでまたそれは次回以降の記事で紹介することにしよう。

参考文献

西川満(1941)「大正町」『文藝台湾』2(5) 

西岡英夫(1936)「臺北近郊遍歷·松山庄の卷(上)」『臺灣時報』1936年11月号

 

 

 

*1:なお、「三笠」は戦後三民主義の「三民」に改名されている。外来政権に翻弄される台湾の歴史を物語る例の一つだ。

*2:古事記日本書紀に記載のある日本の美称。豊葦原から取られた「豊原」という地名も台中にあるほか、樺太の首府・豊原(現ユジノサハリンスク)にも見られる。

*3:「崇徳」とはいかにも国民党風な地名だが、それはまた別の記事で取り上げようと思う。

台湾の地名について(西洋と関わりのあるもの)

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17世紀、現在の台南・安平の地にオランダ人が台湾経営の拠点として築いたゼーランディア城(Kasteel Zeelandia)を描いた水彩画。タイオワン(TAIOAN)はシラヤ族によるこの一帯の呼称に倣って表記したもので、当時表記方はTAIOVAN、TAYANなど様々あったらしいがこれが「台湾」の名前の由来になっているというのが一説だ。

前回、台湾の地名の面白さについて少し紹介した。今回の記事では、本編の第一回として西洋と関わりのある台湾の地名をいくつか挙げていこうと思う。

西洋と関わりのある台湾の地名

欧州が大航海時代に入ると台湾近海にもポルトガルはじめ各国の船が行き交うようになる。そして17世紀前半になるとオランダが台湾南部、スペインが台湾北部に拠点を築いた。この頃オランダは既にジャワ島に進出しており、スペインもフィリピンに拠点を構えている。台湾はそこから見て中国への中継点に位置し、両国が中国貿易に本格的に参入する上で戦略的に重要な場所として浮上したのではないかと考えられる。

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ゼーランディア城は現在は「安平古堡」と呼ばれ、城壁の遺構が残されている。

台湾には西洋人の足跡を今に残す地名がいくつか残っており、下記にそのうちの代表的なものを紹介していこう。

三貂角

台湾北東端に位置する岬。スペイン人が金鉱を求めて台湾北東部に上陸する際、故郷の地名に因んでSANTIAGOと呼んだのが由来で、のちに音訳され「三貂角」という表記になったという。1931年に建てられた白亜の灯台があり、有名な観光地になっている。

富貴角

台湾最北端の岬。「富貴」の部分はオランダ語のhoek(岬)の音訳であると言われている。「角」も中国語で岬の意味なので、「富貴角」を直訳すると岬岬になってしまうが、Todaiji Temple、Arakawa River みたいなものなのだろうか...

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台湾最北端の富貴角(Photo courtesy of Taiwan Tourism Bureau)
紅毛○○、烏鬼○○

「紅毛」は漢民族がオランダ人を呼称するときに使った言葉で、淡水の「紅毛城」、高雄の「紅毛港文化園区」などの観光地にその名前を残している。このほかに、「烏鬼」を名前に冠する地名・場所名(烏鬼橋、烏鬼埕、烏鬼渡)も昔はあったようだ。これはオランダ東インド会社インドネシア等の南洋から台湾に連れてきた奴隷を漢民族が「烏鬼」と呼称していたことから来ているという。「紅毛」といい「烏鬼」いい、当時の漢民族の世界観を地名から窺い知ることができる。

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淡水の紅毛城(Photo courtesy of Taiwan Tourism Bureau)
美麗島

高雄にあるメトロの駅の名前で、特徴的な外観や内部のステンドグラスアートなどで有名だ。駅名の「美麗島」はポルトガル語の「Ilha Formosa」の意訳で、16 世紀に台湾東部へ航行して来たポルトガル船の船員が、船上から見える鬱蒼とした森林と山岳を持つ台湾島の美しさに驚嘆して「Ilha Formosa(美しい島、麗しい島)」と呼んだことに由来しているという。台湾人自身も自分達の住む島への誇りをもって台湾島のことを「美麗島」と言い表すことが少なくない。

それではなぜ高雄のメトロ駅が美麗島の名前を持つようになったかというと、民主化運動の先駆けとなった1979年の「美麗島事件」が発生したのがこの地だからだそうだ。美麗島事件は1979年に雑誌「美麗島」が高雄で主催したデモ活動が国民党政府に弾圧され、主催者が投獄された事件だが、現在では民主化運動の先駆けとなったと評価されている(そしてこの事件の弁護団が今の民進党政権の中枢を占めている)。

西洋人による台湾の旧称がやがて台湾民主化運動の象徴となり、その名前が駅名として残されるようになったというのは興味深い。

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美麗島站(Photo courtesy of Taiwan Tourism Bureau)
※番外編:羅斯福路

台北市内にある大通りの名前で、通り沿いには多くの政府機関や国立台湾大学などの重要施設が立地している。戦後米国の経済援助のもとで建設され、第二次世界大戦中華民国と共に戦ったアメリカ大統領ルーズベルトの名前を冠して命名された。英文名は「Roosevelt Road」で羅斯福はルーズベルトの音訳だ。

...さて、いかがだっただろうか。次回は原住民族の呼称に由来する地名を紹介していこうと思う。

参考文献

岩生成一(1938)「ゼーランディヤ城の圖について」『科学の臺灣』6(1/2), pp8-11