休学中の記録

台湾の地名について(原住民族と関わりのあるもの)

台湾の山名と原住民

台湾の地名と原住民の関わりを意識するようになったのは、2016年に聖稜線の山々を歩いた時だと思う。聖稜線は台湾岳人憧れの山岳縦走ルートなのだが、その途中に凱蘭特崑山(3,731m)や穆特勒布山(3,626m)のように、字面からは意味がわからない漢字の組み合わせで表記される山々がある。後になって、これは原住民の呼称に漢字を当てた山名が多いからだということを知った。

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穆特勒布山(3,626m)の断崖絶壁

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原住民の呼称に基づく山名は、日本統治時代には北海道の山と同じように片仮名表記で呼称されていた。※画像来源:鹿野忠雄(1934) 臺灣次高山彙に於ける氷河地形研究(第1報) 地理学評論10:607

台湾の山には、このように原住民の言葉を音訳した山名がたくさんある。括弧内に日本統治期の表記を合わせて記載しながら紹介すると、

喀西帕南山(カシパナン山)、庫哈諾辛山(ウハノシン山)、海諾南山(ハイノトーナン山)、馬利加南山(マリガナン山)、馬博拉斯山(マボラス山)、克拉業山(カラヘイ山)、帕托魯山(パットル山)・・・

というように例を出しはじめるとキリがない。ところが、これらの山名の由来を一つ一つ明らかにしていくのは難しい。その理由として考えられるのは、

  • 原住民の中でも数多くの部族に分かれ、それぞれによる山の呼称が違うことがあるから。
  • もともとある場所を指していた山名が何らかのタイミングで別の場所の山名として定着することがあるから

など様々あると思う。

例えば台湾中央山脈には八通関山という標高3,335mの山があるが、この山名の「八通関」は台湾原住民のツオウ族が台湾最高峰の玉山を指していた「Pattonkan」の音訳から来ている。

そもそもなぜ玉山を指していたはずの「Pattonkan*1」という呼称が八通関山に用いられるようになったかというと、まず清朝時代の末期に呉天亮という人が台湾の東西横断道路を修築した際、その要所の地を四通八達の意味から「Pattonkan」に「八通関」の文字を当てて表記したことに始まるようだ。

八通関の地は玉山の山麓に当たるので、あながち玉山と無関係な場所ではないのだが、いずれにせよこの際にもともと「Pattonkan」が指していた玉山山頂と、その音訳の「八通関」の場所にズレが生じることになった。複雑なのは、更にその後八通関の向かいにある山が慣称として「八通関山」と呼ばれるようになり、いつの間にか地図上の地名として定着していったことだ。

このように山名が本来指していた場所から移動することは稀ではない。馬博拉斯山(3,785m)もその例で、「馬博拉斯」はブヌン族による呼称である「Mahudas(白髪の老人の意)」の音訳だと言われているが、「Mahudas」がもともと指していたのは中央山脈最高峰・秀姑巒山(3805m)だったという。日本統治期に誤った同定がなされたことで、もともと指していた山とは別の山名として定着することになった。

台湾で多くの人が知る名峰の山名ですらこの通り複雑なので、他の山名についてなおさら由来を追いにくいのが現状だ。様々な文献を当たってみても確固とした山名の由来が確認できるものは少ない。

台湾原住民族の部落名

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河岸段丘上にある利稻部落。背後には關山(3,668m)を筆頭に3500m級の山が聳える。

山名の他に原住民の言葉を音訳した地名が多いのは部落*2の名前だ。例えば、司馬庫斯、鎮西堡などがその例で、日本統治期にはそれぞれスマンクス、チンシボと片仮名表記で記載していた。戦後になるとこれらの部落名には漢字が当てられるようになった。

ところが、先ほど挙げた司馬庫斯などの例外を除くと、現在必ずしも単純な音訳になっていない部落名も多い。これは、恐らく行政表記上の都合で漢字化する際に無理矢理2文字に収めようとしたからではないかと考えられる。

もともと短かった地名はブタイ→霧台、ウライ→烏來、リト→利稻、トナ→多納 イラ→伊拉、ソロ→蘇樂のように音訳しても2文字に収まるのだが、それ以上になると音訳では2文字に収まらない。このためチカタン→七佳、ブルブル→霧鹿、マテングル→摩天のように元の発音を短縮してから2文字に音訳しているように見受けられるケースが多く見られる*3

また、それ以外にもピヤナン→南山、シカヤウ→環山、タツキリ→崇徳、グークツ→和中、サカダン→大同というように元の音とは全く関係のない新しい2文字の(しばしば政治イデオロギーの意を含んだ)地名が賦与されてしまった場合も多かったようだ。このため現代の部落名からはもともとの地名がたどれなくなってしまっている部落も少なくない。

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樂山(瑪崙)部落の水田。現在は有機天然乾燥米の栽培が盛んだ。

もともとの部落がどのような名前であったかを調べるには、台湾百年歴史地図などの地図閲覧サービスを利用すると良い。例えば参謀本部陸地測量部作製の地形図とGooglemapを重ね合わせると、日本統治期~現在にかけての地名の変遷を確認できる。

その上で、旧部落名の由来については多くが安倍明義(1938)『台湾地名研究』に記載されているので、それぞれの由来を一つ一つ参照していくことができる。

原住民と漢民族の関係を示す地名

日本統治時代に、台湾の山岳地域が「蕃地」と呼ばれていたのはご存知だろうか。「蕃地」に入るためには所轄の警察から「入蕃許可証」というものを入手する必要があった。

このように原住民居住地域に境界線を引く制度は、台湾で古くから実施されてきた。清朝時代には漢人移民と原住民との接触によって起こる騒乱を避けるため、「土牛溝」「隘勇線」等と呼ばれる境界線を設置したり、石碑を設置したりして、それより奥の漢人の開墾を制限していた。こうした歴史を物語る地名は台湾各地で見られる。

(上)台北に残る「石牌」の地名 (下)「土牛」の地名も各地に残る。

また、原住民の部落は「社」と呼ばれていたが、その名残は社頭、社寮、水社などの地名に残されているし、番婆、番路などのいわゆる「番(蕃)」のついた地名も各地に見られる。

こうした地名が平野部にも多く見られることは、原住民が山岳地帯にとどまらず平野部にも広く分布していたことを物語っている。「平埔族」とまとめて呼称される平野部の原住民は、やがて漢人との通婚などを経て同化が進んでいったと言われているが、私達は地名を通じてその歴史の一端を知ることができる。

地名の「回復」について

2020年1月の台湾総統選挙の際、蔡英文が投票日前日の最後の演説で聴衆に語りかけていた内容が興味深い。

你們其中有些人可能不知道,我們現在所在的地方,過去叫做介壽路,就是爲了恭祝威權時代的統治者萬壽無疆所取的名字,這裏是台灣從威權到民主的過程最關鍵的地方,凱達格蘭大道的歷史就是台灣民主改革的歷史。

(今ここにいる皆さんの中にはご存知ない方もいるかもしれませんが、今、私達がいるこの場所は、かつて「介壽路」と呼ばれていました。「介壽路」というのは、戒厳令時代の統治者(蒋介石)の長寿を願ってつけられた名前です。この場所は台湾が戒厳令統制下から民主社会へと発展する過程の中で最も重要な役割を果たした場所です。「凱達格蘭大道」の歷史は台湾の民主改革の歴史そのものなのです。)

蔡英文は凱達格蘭大道の名前の変遷に触れながら台湾の民主化の歩みを紹介した。凱達格蘭(ケダカラン)はかつて台北盆地一帯に居住していた原住民(平埔族)の名前で、この道路名の改名は台湾の民主化・本土化を象徴するものだったと言える。

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総統府前の「凱達格蘭大道」

台湾ではこのように戒厳時代からの決別、本土化、民主化の文脈の中で地名を見直す動きが高まった。原住民族地区でも自らの言語による地名へ改名したり、元の地名を「回復」したりする例が見られるようになった。

例えば台湾高雄市の「那瑪夏区」は、1957年に郷内の3つの村が民族、民権、民生と改名され、合わせて「三民郷」とされていたものを、2007年に原住民の言語に則って命名し直したものだ。

少数民族や先住民の古来の地名を保護、回復するのは今や国際的な潮流だ。例えばオーストラリアの「Uluru/Ayers Rock」やニュージーランドの「Aoraki/Mount Cook」に見られるように、先住民による地名と通称を併記し、かつ先住民の言語を先に記載する例が多く見られるようになっている。

5年に1度開催されている国連地名標準化会議においても、Geographical Names as Cultural Heritage(文化遺産としての地名)という作業部会が設けられ、先住民や少数民族の地名を文化遺産として振興するための議論が重ねられている。

https://unstats.un.org/unsd/geoinfo/UNGEGN/wg10.html

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ニュージーランド最高峰のAoraki/Mount Cook

台湾における原住民族の地名尊重の背景には、こういった国際的な潮流との連動も感じられる。台湾で2005年に制定された原住民族基本法の第11条には、以下のような規定がある。

政府於原住民族地區,應依原住民族意願,回復原住民族部落及山川傳統名稱。

(政府は原住民族地区において、原住民族の意向に従って部落及び山・川の伝統的な名称を回復しなければならない)

この規定は固有の地名への尊重、ひいては原住民族による地名の自己決定権を表現したものとも言えるだろう。

伝統領域と伝統地名

原住民族基本法で地名回復に関する規定が盛り込まれたものの、その後実際に行政的な地名が改名された例はまだまだ少ない。ここでは詳論しないが、そもそも「回復」というのは単純に片付けられる問題でもないだろう。

一方で、ミクロなスケールでの台湾原住民族の伝統的な地名については、2000年代に行われた「伝統領域調査」で明らかにされていった。伝統領域というのは、原住民族が昔から狩猟、耕作、祭祀などに使ってきた生活領域のことだ。「伝統領域調査」では、台湾全土の原住民部落周辺の伝統地名を部落の高齢者へのヒアリングをもとに掘り起こし、GIS技術を用いて「部落地図」という形で地図化していった。

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例:南山部落における伝統領域調査の一部

こうした部落地図に記載されている伝統地名は、行政的な地名ではないので私達が通常使う地図で確認することはできない。ただし原住民族委員会のホームページで報告書を確認することはできるので、興味のある人は覗いてみてはいかがだろうか。伝統地名は生活の必要の中でつけられてきたものがほとんどで、地名を通して昔の生活を窺い知ることができるのが面白い。

 

最後に

はじめはカジュアルに地名を紹介しようと思ったのだが書き進めるうちに、あれもこれも・・・と随分長くなってしまった。もちろん上記が全てではないものの、地名という切り口から見えてくる台湾の姿に少しでも興味を持っていただける人がいれば嬉しいなぁと思う。

 

 

*1:アルファベット表記の方法は数種類あるようだが言語学的にどの表記を用いるのが適切かはわからないので、多く見られた表記に倣った。

*2:「部落」と書くと、日本人には被差別部落のようなどこか貶めるニュアンスを感じるかもしれないが、台湾では原住民の集落のことを一般的に部落と呼んでおり、語義としても中立的に使われているため、現地の呼称に従った。

*3:ここでは「もともとの地名」を片仮名表記で記載しているが、それは日本人にとってわかりやすいから便宜的に使っているだけで、一般的には原住民の言語による地名はアルファベット表記で記載されていることが多い。