台湾を旅行したことがある人であれば、日本風の地名と出会って不思議な気持ちになったことがある人もいるのではないだろうか。あるいはもしかしたら、あまりにも自然に現地に根付いているので、あくまで台湾にある数多くの地名の一つとして特に注意せず通り過ぎてしまう人も多いかもしれない。
私も台湾に通い始めた初期の頃は「板橋」「松山」などの地名を見ても特に違和感を感じず、ましてや立ち止まってその地名の由来を調べることなどはなかった。ところが後になって東部を旅行した時、「瑞穂」「鶴岡」「舞鶴」などの地名を見たのをきっかけに、これはどうも由来があるらしい、ということに無意識に感づくようになった。
そしてその後台湾の山岳地帯に出入りするようになって「見晴」「川中島」などの地名を発見し、更に先の記事にも触れたが「關原」=「関ヶ原」の歴史故事をきっかけにして台湾の地名に興味を持つようになった。
さて、今回の記事では「日本人と関わりのある台湾の地名」ということで、よく知られている地名の他に、少しマイナーな日本語地名も含めて紹介していこうと思う。また、地名だけを紹介するのも無味乾燥なので、適宜観光紹介もしていくつもりだ。
日本人と関わりのある台湾地名の由来と種類
台湾では日本による領有以降、随時各地の地名が変更されてきた。特に1920年の地方行政区画変更に合わせて一斉に多くの地名が変更されており、この際の地名変更の結果が現在まで残っている例が多い。
また、東部の花蓮・台東など関しては1910年代から入植がはじまった官営日本人移民村に内地風の地名が見られるほか、1937年に地方改制があり、その際に多くの内地風の地名が導入された。
日本統治期に導入された地名の特徴としては、主に下記のパターンがあるようだ。
※整理の仕方は文献によって異なる。以下は様々な文献を参考にしつつ、私なりに理解しやすいように自己流に整理しているに過ぎないので、あくまで一つの参考としていただければ幸いだ。
①日本内地の地名と共通するもの
台湾には日本の内地と共通する地名が多い。こうした地名には、明らかに意図を持って既存の内地の地名を導入したと考えられるものもあれば、内地風の原則に従って地名を命名する中で既に内地にある地名と共通する地名がつけられることになったパターンもあるように思われる。以下に例を紹介していこう。
松山
もともとはバサイ族の言葉で「河の曲がったところ」を意味する「syakkaw」を閩南語読みで音訳して「錫口」という地名だったが、1920年に内地風の「松山」という名前に改名したという。ネット上には四国松山と風景が似ているから「松山」と名付けたと書かれているものもあるが、私がいくつか文献を確認した中では附近の山林に松の木が多かったことから「松山」と改称した、という説が多かった。
舞鶴
安部明義の『台湾地名研究』によれば、現地のアミ族の言葉で物々交換を意味する「マイブル」に「舞鶴」の漢字を当てて表記したそうだ。
舞鶴は台地上の水はけのよい土地で、1930年代に住田物産株式会社が官有地の払下げを受けて珈琲の企業的栽培を開始した地だ。住田物産は当時日本の委任統治領だったサイパン島で珈琲栽培を行っており、それに続く産地として開発を進めたという。
戦後珈琲産業は衰退し、代わりに茶園が開発されて茶産地として有名になっているが、「舞鶴珈琲」 もスペシャルティーコーヒーとして少量生産されているようだ。
鶴岡
花蓮県にある地区の名前で、1937年にもともとあった「烏鴉立」という地名を「鶴岡」に改名している。「烏鴉立」と鶴岡は発音が似ているわけでもなく、また山形県人と関わりがあった記録などは特に見つからなかったので、由来はよくわからない。
花蓮県ではこの他にも春日、大和、三笠*1、長良など1937年に内地と共通する地名に改名されている例がたくさんあり、日本化を強力に推し進める時代背景もあったのかもしれない。
鶴岡では「鶴岡文旦」が有名だ。文旦は台湾で一般的に「柚子」と呼ばれており、中秋節の頃によく食べられている。果肉はグレープフルーツに似ていてジューシーで、酸味や苦みはほとんどなく、ほんのりとした甘さがあっておいしい。
川中島
川中島は、霧社事件の後に生き残ったセデック族を集団移住させて作られた部落の名前だ。川の中島ではないようだが、附近に三本渓流が並行して走っているところから川中島と名付けたらしい。水田耕作が導入され、部落の生活は激変した。
戦後「清流」部落と名前を変えたが、「川中島」の呼称も少し残っている。
高雄
もともとは付近に暮らしていた原住民の言語でターカウ(竹林の意)と呼ばれ、清代には当て字で「打狗」(犬を打つの意)と表記されていた。その後1920年の行政区域再編にあたって内地風の地名への改称が実施され、「打狗」は京都市郊外の地名に倣って「高雄(たかお)」という表記へと変更された。戦後、漢字はそのままで発音のみが中国語読みとなり、「高雄(gāo xióng)」と呼ばれるようになっている。
漢字の日本語読みと中国語読みが違うために、現在の地名の発音が元の地名の発音とかけ離れるようになっている。
内地と共通する地名はその他にも美濃、岡山、竹田など様々な地名があるが、挙げだすとキリがないのでこのあたりにしておこう。
②もともとの地名を読み方が類似する漢字で日本風に表記したもの
萬華
もともとは原住民ケダカラン族が交易などに利用した木製カヌー「banka」の呼称を音訳して「艋舺」と地名表記されていたそうだ。ところが、1920年の地名改制の際に、より日本人に馴染みのある漢字に置き換えるということで「萬華(ばんか)」と地名が改称された。以後現在までこの地名が使われているが、漢字の日本語読みと中国語読みが異なるために、「banka」⇒「wàn huá」と、もともとの地名の読み方からかけ離れることになってしまっている。
萬華は龍山寺を中心にして下町風情が色濃く残る地区だ。淡水河に沿ったこの地区は古くから交易によって発展し、現在の台北の発展の元となった場所でもある
瑞穂
水尾という地名であったところを、1911年に「豊葦原の瑞穂の国*2」から取って発音の似た「瑞穂」に改名している。
瑞穂は日本統治時代に警察官の療養所としてはじまった瑞穂温泉が人気の旅行先であるほか、瑞穂牧場の「瑞穂鮮乳」も台湾で数少ない国産牛乳として有名だ。
立霧主山、立霧渓
現在の崇徳*3のあたりには、タツキリというタロコ族の部落があった。この部落の名前にちなんで、「タツキリ社」が河口となっている川の名前に立霧渓という漢字をあて、その最上流に位置する山に立霧主山と命名しており、この地名が現在まで変わらず使われている。タツキリ⇒立霧は音訳でもあるし、実際に霧の立ちやすい場所なので意味的にも馴染みやすい命名だった。
③日本語風の意訳した地名をつけたもの
汐止
満潮時に基隆河を遡る海水がこの辺りまで達することから、清朝時代には「水返脚」と呼ばれていたところ、1920年に意味はそのまま日本語風に「汐止」に変更したという。
池有山
池有山は雪山山脈の「武陵四秀」の一角を占める標高3,303mの山だ。タイヤル族によって「Tamarappu」と呼称されており、日本統治期はタマラップ山と表記している文献もあるが、参謀本部陸地測量部1/50000地形図には既に「池有山」と表記されているので、日本統治時代の命名で間違いなさそうだ。実際、この山の周囲に池塘がたくさんあり、それぞれの池をタイヤル族が「Siron ○○(Sironは池の意)」と呼称していたようで、そのことから「池有山」の山名が命名されたと考えられる。
④地名簡略化(主に漢字三文字の地名を二文字に変換したもの)
蘆竹
桃園県の地名で、もともとは「蘆竹厝」という地名だったが、1920年の地名変更で一文字省略された。「厝」の字は家という意味で、蘆竹で作った家があったことから名づけられていた地名だという。
冬山
宜蘭県の地名。冬山と書くといかにも寒そうだが、もともとは冬瓜山という地名で、地名簡略化の中で「瓜」が除かれた。
冬瓜は台湾人には馴染みの深い野菜で、冬瓜茶がよく飲まれているほか、鳳梨酥(パイナップルケーキ)の原料も多くの場合が冬瓜である。
冬瓜山→冬山の地名変更によって土地の記憶が辿りにくくなってしまっている。
鶯歌
「鶯歌石」という地名だったが二文字化の中で「鶯歌」という地名になった。もともとの「鶯歌石」の名前は、近郊にインコの形を彷彿とさせる巨石があることから名づけられたそうだ。
さて、このように、①日本内地の地名と共通するもの②もともとの地名を読み方が類似する漢字で日本風に表記したもの③日本語風に意訳した地名をつけたもの④地名簡略化(主に漢字三文字の地名を二文字に変換したもの)、と4パターンの様々な例を紹介してきたが、①から④は決して独立したものではなく、しばしば重なりあっている。例えば打狗⇒高雄、枋橋⇒板橋などの例には①と②が重なっているように思われるし、水返脚⇒汐止の場合、①③④が重なっているとも言えるかもしれない。
ただ重なっている部分を別の分類として細分化しすぎると複雑になるので、あくまで主な要素を分解すると主に上記の通りになる、と捉えるとわかりやすいのではないだろうか。
また、以下に数は少ないが、その他に興味深い例も挙げていこう。
追記1:日本人の名前を用いた地名
①~④のパターンとは別に、当時の偉人の名前を利用したパターンの地名(明治町、大正町、昭和町、樺山町、乃木町、兒玉町、明石町、佐久間町)もあるが、このパターンは道路名、町名などに多く、戦後中華民国施政下ですぐに改名されていったため現在ではほぼ全てが消滅している。ただし、花蓮県にある佐久間山、江口山、富田山や阿里山の小笠原山など、一部の山名に残っている。
追記2:林森北路に残る〇條通
日本統治時代に名付けられた道路名の名残をとどめる例として、林森北路一帯が挙げられる。このあたりは、日本統治期の大正時代に新しく区画・開発され、「大正町」と呼ばれる屋敷街だった。大正町の通りは、はじめイ通り、ロ通り、ハ通りなどと呼ばれていたようだが、やがて一條通り、二條通り、三條通り・・・と一條通りから九條通りまでが名付けられた。
戦後になるとこうした呼称は廃止され、一條通り~九條通りの名前も地図上には残されていない。しかし現在でも「〇條通」という呼称は習慣的によく使用されており、例えば一帯の飲食店の店名をみると「八條老宅麻辣鍋」「六條通按摩店」のように「○條」を冠した店名が多い。位置を指し示すのに便利でわかりやすいからかもしれない。
...その他に公式的ではないが通称として広く用いられている地名としては、「台湾の原宿」などと呼称される「西門町」も一つの例だろうか。私が知らないだけでもしかしたらもっと色んな例があるのかもしれない。
...いつの間にか地名の由来をまとめるつもりが観光紹介のようになってしまった。台湾を旅行するとき、訪れる場所の地名の由来にも少し思いを馳せてみると、また違った楽しみ方ができるだろう。
前回の記事では、「次回原住民と関係のある地名を紹介する」と書いたが、思ったより奥が深く、時間がかかりそうなのでまたそれは次回以降の記事で紹介することにしよう。
参考文献
西川満(1941)「大正町」『文藝台湾』2(5)
西岡英夫(1936)「臺北近郊遍歷·松山庄の卷(上)」『臺灣時報』1936年11月号