休学中の記録

台湾山岳地帯ブヌン族の村と野渓温泉の旅(利稲部落、栗松温泉)

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台湾の山岳地帯には原住民*1が暮らしている。原住民の人口は、台湾政府によって認定されている16族を全て合わせても全体人口の約2%と少数派である。しかし原住民は中国大陸沿海部からたくさんの華人が移住してくるようになる17世紀以前から台湾に居住しており、ある意味では台湾島の主とも言える存在である。

今回はそんな台湾原住民のうちブヌン族の暮らす利稲部落と、部落からほど近く「台湾で最も美しい野渓温泉」とも言われる栗松温泉に訪れる旅に出かけた。

利稲部落から栗松温泉へ

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前日の夕方に鼎東客運のバスで利稲部落までアクセスし、この日は部落の民宿に泊まった。翌朝、早起きして散歩をすると山の空気感がとても清々しい。台湾高地の原住民部落では、高原野菜の栽培が主要収入源となっているところが多いが*2、利稲部落でもキャベツ、トマトやインゲン豆、ピーマンなどの野菜が栽培されており、キャベツ畑は収穫の真っ最中だった。

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朝食は部落唯一営業している「愛心早餐店」で蛋餅と紅茶にする。肌寒い山の朝には、甘ったるい紅茶がよく合う。温かく甘い紅茶が体に染みわたる幸せを感じていると、店主が声をかけてくれる。

「今日はどこへ行くの?利稲部落まではどうやって来たの?」 

栗松溫泉に行きます、部落までは自家用車ではなくバスで来たので温泉までは歩いて行こうかなと思ってます、という私に対し、店主がアドバイスをくれる。

「歩くとかなり遠いよ。そうだ、今日は水道管の補修でたくさんの人が上に上がるからトラックに乗せていってもらうと良いよ」

そしてちょうどトラックで通りかかった家族を呼び止めてくれる。私は口の中にある蛋餅を急いで飲み込み、あまりに急いだのでむせて咳き込みながら、トラックの荷台に乗り込んだ。発車前に部落の人達が集まって口々に話しかけてきてくれる。

「日本人??一人で来てるの??」「台湾を宣伝してね!」

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トラックは部落を離れて急峻な山道を進む。「ガガガガガガ.....」という音と共に直に尻に伝わってくる衝撃はなかなかハードで、荷台にある土まみれの布団を尻の下に敷いて何とか衝撃を和らげる。そして荷台にしがみつきながら、移り変わる景色を眺めて旅情に浸る。少し肌寒い風と、緑に包まれた山々の景色が心地よい。

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目指す粟松温泉への分岐点にたどり着いた。運転手さんはただ私を降ろすだけでなく、親切に案内をしてくれる。

「ここが入り口ね。それから、今日はたくさんの人が上の水道管*3の補修に行くけど、午後5時には仕事が終わって戻ってくるから帰りはそれに乗せてもらえば良いと思う。あ、そうそう、一本水を持って行きなよ。それではまたね」

もらった500mlペットボトルの水を片手に、作業に向かう皆を手を振って見送る。

「台湾で最も美しい野渓温泉」:栗松温泉

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さて、降ろしてもらった場所からは林道のような道を下っていく。林道の終点には粟松温泉への入り口を示す看板があって、そこから登山道(下山道)が始まる。標高差は約300m。はじめはゆるやかな下りだが、渓床まで下りるところはかなりの急斜面で落石などには注意が必要だ。

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渓床に降り立って、岩壁に張られたロープを伝いながら上流へ向かうと、粟松温泉にたどり着く。粟松温泉はゴルジュ状になった岩壁から温泉が染み出ているとても特殊な温泉だ。岩壁からは蒸気が立ち昇り、緑色の鉱物が結晶化している。

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先行してブヌン族のガイド2人の案内の下、8人ほどの集団が入浴していた。とても盛り上げ上手のこのガイド2人も利稲部落在住らしい。

「家にカラオケがあるから遊びに来ると良いよ。日本語の歌もあるよ」

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入れ替わり立ち代わりたくさんの人がやってきては帰っていくが、自分は遠路はるばる来たので、横になりながらゆっくり湯を堪能する。1時間半ほど滞在しただろうか。

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人がいない時は本当に秘湯の趣満載なのだ。

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入浴後は標高差500mをまた登り返して南横公路まで合流する。道路脇には3500m級の山脈を背景にしてタイワンカンヒザクラが咲いていた。周囲の景色を楽しみながら下山していると、温泉で知り合った心優しい家族が運転する車が停まる。

「車で乗っけていってあげるよ!」

親切に甘えて車に乗り込む。話を聞くと大学生の娘が車を運転し、両親を連れて一緒に粟松温泉にやってきたのだという。車内ではお母さんが「黑松沙士」の缶をくれる。「湿布の匂い、歯磨き粉の匂い」などと形容される強烈なドリンクだが、不思議なものでこの時はなぜかとてもおいしく感じた。

利稲部落で車を降りても良かったが、せっかくなので史跡がある次の霧鹿部落まで車に乗せてもらうことにした。

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霧鹿部落では、日本統治時代に原住民への威嚇用に設置された砲台跡が史跡として整備されている。この大砲は1903年にロシアで製造されたものだが、日露戦争で日本軍に捕獲された後、台湾山岳地帯に運ばれて日本の警察による原住民制圧の道具として使われたらしい。

心優しい家族とは部落の入り口で記念撮影をし、ここでお別れだ。車影が見えなくなるまで手を振って見送った後、ふと山道に一人取り残された自分に気づいた。何ともいえない寂しさが押し寄せたが、気を取り直して利稲部落まで戻った。

心温まる利稲部落での滞在

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利稲部落に戻り、周りを歩くと色々と興味深いものが見つかる。

「これは猿を撃つためのものだよ。人が中に入って猿を狙う。猿は農作物を荒らすからね。」

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「ここでは小さい猪を山で捕まえてきて大きくなるまで中で飼育しているんだ。上にある葉っぱ?これはドラゴンフルーツだね。伝統的にこうしているというわけではなくて、まぁ涼を取るためにこうしているんだろうね」

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信仰の中心はプロテスタント教会だ(カトリック教会もあるが、プロテスタント教会の方が大きい)。

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夜、村民の誘いでバーベキューの輪に入れてもらった。肉を豪快に焼き、みんなで楽しくお酒を飲み交わす。私が日本人なので、みんな口々に日本とのゆかりを話してくれる。

「日本統治時代の僕の名前は山本登、父さんの名前は山本十六と言ったよ。」

「俺の家族は大山という姓だったんだ。」

山に暮らす民だから、「大山」「山本」などの苗字が当時当てられたのだろう。もちろんこれらの姓は日本人=植民者に付与されたものでしかなく、本来彼らはそれとは別にブヌン族として自らの言語での名前を持っている。

「部落には12、いや8くらいの家族(血族集団)がいるかな。」と言っていたから、恐らく、「大山さん」、「山本さん」の他にも当時はいくつか日本風の苗字がつけられたのだと思う。

日本統治時代、ブヌン族の人達にも日本語教育が行われた。このため、ブヌン族の彼らが使う語彙には日本語がたくさん入っているという。例えばスリッパ、タバコ、アメダマ、ガッコウなどなど...と色々と村民の人達がたくさん例を挙げてくれる。また、電話のことを「モシモシ」と言うことがあるという。 

戦後75年が経った今日において、ブヌン族にもう日本語話者はほとんどおらず、ほぼ全ての人が標準中国語(台湾国語)を話す。しかし、黙々と毛糸で編み物をしていた90歳のおばあちゃんと会話を試みると、何と日本語が返ってきた。「日本語は誰も話す人がいないから忘れてしまった。私はもう耳が聞こえない。」と言いながらも、「ブヌン族は自分で食べるから」 と日本語で私に目の前の食べ物を遠慮せず食べるように力強く勧めてくれた。

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かつてのブルブル教育所の様子。「三年生が二十名、一年生六名で、二年生は無し。今日は粟祭りで蕃社に歸つたものが多くて少しさびしい。先生に着物を着かえさして貰つてすつかり良い兒になり、至極真面目な顏で『さあどうぞ』」出典:毛利之俊(1933)『東臺灣展望』 東臺灣曉聲會、画像:花蓮洄瀾文教基金會(http://huei-lan.blogspot.com/?view=timeslide)より引用

おばあちゃんは5年生くらいの年齢まで*4日本の教育を受けたという。当時は利稲(日本統治時代名:リト)に学校はなかったので、はじめは摩天(日本統治時代名:マテングル)の学校に通い、その後霧鹿部落(日本統治時代名:ブルブル)にある学校に通った。

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マテングル教育所 出典:毛利之俊(1933)『東臺灣展望』 東臺灣曉聲會、画像:花蓮洄瀾文教基金會(http://huei-lan.blogspot.com/?view=timeslide)より引用

台湾原住民の高齢者に日本語話者がいることは知識として知っているが、実際に言葉を交わすと、時空を超えて会話しているような、とても不思議な感覚が押し寄せる。

村民のみんなとの話は尽きない。

「僕たちの先祖は元々はもっと山の上に住んでいたんだけれど、日本統治時代の政策でこの台地上に集住するようになったんだ」と、また別の人が言う。

日本人は原住民の統治を開始するにあたって、まずは周囲に散居していた原住民をまとめて1つの部落に集住させた*5。そして1つ1つの集住部落をつなぐようにして警備道路が作られた。それぞれの部落には「警察官吏駐在所」が置かれ、駐在する警察官によって定地耕作指導や衛生指導、日本語教育などの「授産政策」が実施された。

台湾各地に警備道路は作られたが、利稲部落(日本統治時代:リト社)を通る警備道路は「關山越え道路」と呼ばれた。この「關山越え道路」は1972年に開通した自動車道路:南部横貫公路(南横公路)の前身だ。南横公路が開通して以来、その役目を終えて「古道」と呼ばれるようになったが、台風等で南横公路が寸断した時や狩猟の際の道としてその後も細々と使われることはあったという。

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かつての關山越え道路の路線図。出典:国分直一(1936)『關山越の山路』台灣時報、画像:https://blog.xuite.net/ayensanshiro/twblog/586577057 より引用

「古道は今でも残ってるよ。栗園(旧カイモス警察官駐在所)のあたりは比較的状態が良く残っている。今でも狩猟の時に利用することがあるよ。ただ出口がないから入って出るしかないけどね。」

「狩猟の季節は3月から6月頃が多いかな。特に4月の射耳祭の時期だよ」

「射耳祭は海端郷の各部落で催行されているお祭りで、時期は鄉公所が決定するけど、今年は4月4日の予定だよ。ちょうど学校も休みの日だから」

「射耳祭の時期に是非来るといいよ」

お酒が回って良い気分になっていく。今日一日の素晴らしい出会いに、幸福感に満たされていく。・・・・・。

f:id:toyojapan1:20200107093314j:plainそして翌朝。また愛心早餐店で紅茶と蛋餅の朝食。食べ終わってからバスまで時間があるので、部落の裏山にある東屋まで登ると素晴らしい眺めが得られた。河岸段丘上に整然と並んだ家屋。そして後ろにそびえるのは中央山脈の3500m級の山々だ。

...後ろ髪を引かれるような気分で部落を後にした。 

*1:台湾原住民族:中国大陸沿海部からたくさんの移民が台湾にやってくるようになった 17 世紀以前から台湾に居住していた人々のことを指す。言語、文化上は太平洋からインド洋地域に分布する南島語族に属し、現在政府によって 16 族が認定されている。台湾を支配した外来政権によって様々な形で呼称され、日本統治時代に「蕃人」「高砂族」、国民党政府に「山地同胞」などと称されていたが、後に正名運動を経て 1990 年代に原住民(族)の呼称を正式に獲得した。現代日本語の語義において「原住民」という呼称は蔑視的な意味を帯びることがあり、通常「先住民」という言葉が使われることが多いが、中国語における「原住民(族)」は「元々の」住民であるという意味にすぎない。このため本文中では一貫して「原住民」という表記を使っている。

*2:台湾高地の高原野菜栽培:北部横貫公路、南部横貫公路の開通によって交通の利便性が向上した原住民部落では、キャベツをはじめとする高原野菜や桃・梨などの果樹栽培が盛んになっている。産業構造としては部落によって異なるが、例えば部落の商店の旦那さん(漢族)が雇用主となって、村民(原住民)にキャベツの収穫、施肥など農作業の仕事を与える、という形などがあるだろう。収穫された高原野菜や果物はトラックで山の下の街の市場へと運ばれる。キャベツであれば一籠あたりで値段が決められ、高原で作られたものは平地で作られたものより高い値段が付く。

*3:水道管:話を聞くところによると、向陽山の方の標高2400mほどのところにあるのだという。恐らく高原野菜の栽培に使う農業用水を山の上から引いているのだと思われる。

*4:ここで「小学5年生」と書かないのは、彼ら/彼女らが通った学校は「蕃童教育所」等と呼ばれており、いわゆる「小学校」ではなかったからだ。

*5:台湾原住民への移住政策:日本統治時代、台湾原住民に対して半強制的な移住政策が実施された。移住を強行した理由は様々あるが、例えば集住させることで治安維持・警備費用を節約するためであり、また原住民が行う焼畑が森林保全・国土保全を脅かすと考えられていたため、1ヶ所に定住させて定地耕作化を図ったことも理由の一つだった。利稲部落のように定地耕作適地が原居住地付近にあった場所では散居→集住という村落形態の変化が起こったのみで、地勢的な居住環境の変化はなかった。一方で周りに定地耕作適地が無いところでは、高地の部落から山麓の低地に集団で移住させられた例も多かった。こうした場合は移住先でマラリアに苦しめられるなどの弊害も多かったうえ、祖先が暮らして利用してきた土地=伝統領域と原居住地の間に大きな地理的隔絶が生まれてしまうことになった。「日本史」で教えられることのない歴史だが、日本人として知っておくべき歴史の一つである。