2017年12月、母・叔父と共に、祖母を連れて台南高級女子中学の100周年記念式典に参加した。台南高級女子中学の前身は日本統治時代の旧台南第一高等女学校(台南一高女)だ。その卒業生である祖母は、当時見つかっている中で最高齢の日本人卒業生で、学校の招待を受けて式典に参加することになったのだ。
祖母は2016年に胃癌が見つかって以降決して体調は万全ではなかった。けれども学校側の熱心な招待もあり、台湾に行くことが生きる上での一つの目標になり、徐々に食欲と体調を回復させて台湾渡航が叶った。私達は期待を胸に関西国際空港を出発した。
台南の空港では台南高級女子中学の卒業生が出迎えてくれた。私が2015年にはじめて学校を訪れた時からとても親切にしてくれた国文科の蕭先生、そして日本語が流暢で今回の滞在中何かとお世話をしてくれた荘さんだ。
この日校内を案内してもらったあと、私達は土魠魚羹、牛肉湯、牛雜湯、蝦仁飯、鴨蛋湯、肉圓...など台南のおいしいものをたくさんテイクアウトして、ホテルでみんなで仲良く食べた。
そして翌日。百周年の式典は円満に終わった。一高女時代の卒業生達が当時の校歌を歌い、みんなで校長先生と一緒に記念撮影をした。夜には校友会の理事長が、日本からの参加者をディナーでもてなしてくれた。日本人卒業生をみんなで大事にもてなしてくれるのが嬉しかった。
台南第一高等女学校の100周年記念式典の後、私達は関廟国民小学(旧関廟公学校)を訪れた。この学校では曽祖父が1935(昭和10)年から1939(昭和14)年まで校長を務めていた。校舎は既に建て替えられて久しいが、もしかしたらまだ当時の資料が残っているかもしれないと思い、妻とその友人の協力の下、職員室を訪問した。
私達は史料室に案内され、その一角にある古いロッカーの中に経年劣化の著しい日本統治時代の資料を見つけた。日本統治時代の資料は廃棄はされていないものの、手をつける人もおらず、ロッカーの中にうず高く積まれていた。その中から、曾祖父が校長であった時の活動記録を探し出した。ボロボロになった紙を破らないように慎重にページをめくりながら、曾祖父の名前を探す。そして、「1935年2月7日 勲章傳達式列席の為参郡」という記述を見つけた。
戦後70年以上が経ち、關廟の町は様変わりしていた。祖母は「○○の曲がり角に○○屋があって・・・」というような細かいことまで覚えていたけれど、当時の面影はどこにも探すことができない。けれども校舎の裏には、パイナップル畑が今も広がっていて、当時から大きくは変わっていないのではないだろうかと思われた。パイナップル(=おんらい)の畑は台湾人の友人との遊び場だったという。
その後、高鐵で台北まで行き、祖母の兄が通っていたという国立台湾大学(旧台北帝国大学)などを訪れた。そして最後に戸政事務所で日本統治時代の戸籍謄本を発行してもらった。当時の記録がしっかりと文書で残っており、私達は福井から台湾に渡り、生活を築いた祖先に思いを馳せた。
台湾から帰国後、祖母は2016年の手術直後の様子が嘘のように食欲を回復させた。一時期は深夜に起き上ってお菓子を食べたりするので逆に家族を迷惑がらせるほどだった。日によって差はあるものの概ね体調も良く、日々命があることに感謝しながら穏やかな毎日を過ごしていたと思う。私も奈良に帰る時はよく散歩に連れて行ったが、そんな時は決まって台湾の思い出話を聞かせてくれた。
修学旅行で日月潭の旅館に泊まった思い出。新高山登山の記憶、1933年皇太子様が誕生した時の提灯行列、鳳凰木の街路樹の美しさ... 80年近く前の話を昨日の出来事のように教えてくれるのだった。
そんな祖母は今日、95歳で静かに息を引き取った。祖母は大正、昭和、平成、令和の時代を生きた。悲しいことだけれど、祖母のような大正生まれ、昭和初期の記憶を持つ世代はこれから更に少なくなっていくだろう。「日本統治時代の台湾」は遠く過ぎ去り、この時代に青春を過ごした人たちの物語を直接聞くことはもうほとんど叶わなくなってしまうのだろう。
一つの時代が静かに幕を閉じていくような気がして、とても寂しい気持ちになる。
けれども、最後の5年間、色んな縁があったおかげで、家族で一緒にその時代の記憶を振り返ることができたのは幸せなことだったと思う。そして、祖母も最後の数年を幸せに過ごしてもらえていたなら、嬉しい。